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高度1億メートル 09

Before…

【十五】

「あら、おはよ。浮かない顔だねぇ。」
 その言葉は、そのままセイラにも刺さっている。彼女の表情もいつになく明るいものではない。きっと俺も同じような表情だろう。
「イロドリから、聞いた。」
 その一言だけに止め、買ってきたプリンを渡した。色々言いたいことはあるが、どこから手を付ければ良いか分からない。
「あれ、今日は一個だけ。いいの?」
「あぁ、いい。目の前でおばちゃんに買われちってな。」

 大宇宙に相応しい静寂が広がる。時折プラスティックの容器にプラスティックのスプーンがカツ、カツと当たる音だけが木霊する。彼女は半分食べた後、残りの半分を俺にくれた。
 黙って残りを食べた。今までここで何度か食べたことがあるはずなのに、不思議なほど味がしなかった。頭の中がもう容量オーバーなのが自分自身よく分かっている。食べ終えると、セイラがすっとゴミ箱を渡してくれた。そこに食べ終えた容器をそっと捨てた。カラン、という切ない音でさえ爆音に聞こえる。それくらい、今日の二人は静かなのだ。そして、癒されるどころか進路云々以上の焦燥感を抱えている。

「イロドリ、あの子は本当にいい弟だ。私だけじゃなく、ヒイラギのこともすっごく心配してる。話聞いて、正直どー思う?」
「…………」
「私は、ヒイラギに任せたい。」
「……そうか。」
 黙っているしか能の無い俺にも、やはりセイラは優しい。辛うじてひとつの疑問を絞り出した。
「セイラ、現実ではどこにいるの?」
 はぁ、と溜息を吐く彼女。それは俺に対する呆れではないことが伝わってくる。触れてほしくない点だろう。しかし、俺が折り合いをつけるためには絶対に必要な情報である。彼女を、救い出せるかもしれない。その一心のみである。
「わたしはね、」
 遠くを見ていた瞳がこちらに向いた。
「ここ。現実のわたしはもういないんだ。あの日のことはよく覚えてる。できれば話したくないな。」
 話したくない。触れてはいけない過去。行方不明になり、夢の世界で過ごす彼女。かつて言われた「逃げてもいい」という言葉から逃げられない。逃げたらきっと、セイラとはこれっきりになる気がしてならないのだ。
「イロドリも、セイラのことは深く話せないって言ってた。でも、俺は知りたい。離れたくないから。イロドリが現実世界で過ごせってんなら、セイラにも来てほしい。戻ってほしい。それで俺と…」
「でもね、もうわたしに居場所なんて無いんだ。ここがわたしの居場所なんだよ。ヒイラギは、どーする?わたしと一緒にこっちいる?そうなったら可愛いイロドリを裏切ることになっちゃうけど、それでもここにいたいと思う?」
 分からない。どうすればいい?どうしたらこの愛しい人と離れずに済む?深入りしない方がいいのか?だが、策は何も無い。何も、無いのだ。
「俺は…、できることならやっぱ離れたくない。現実、こっちに戻ってはこれない?」
「それは、限りなく無理に近い。戻ったとして、お父さんもお母さんも驚くだろうし、それこそイロドリの今までの努力を全部無駄にしちゃう。だから、私はここにいる。」
「でも、俺は、セイラを、あの、忘れ、」
 言葉が上手く紡げない。どう言えば最善かなんてとうの昔に忘れた。果たして、俺は、離れるのか?嫌だ。一緒にいたい。でも現実は…。
「セイラを、忘れたくない。これから先、夢見てるだけじゃいつか会えなくなる気がしてさ。でも、イロドリの忠告は守るべきだと俺も思う。だから、せめて、その、SNSでもノートでもいい。そこに記録を、メモを、忘れないように、」

「それは、だめ。」
 食い気味に遮られた俺の提案。俺は、このままだとこの愛しい人を忘れてしまうのではないか、という猛烈な恐怖に襲われた。下腹部が捩じ切られるように痛んできた。夢の中なのに。夢の中?ここは現実ではない?
「この場所は、わたしだけの場所。わたししか管理しちゃいけない。イロドリと、イロドリが初めて連れてきた優しいヒイラギだけなの、来ていいのは。それ以外は絶対だめ。例え小さなチラシの裏でも、ここが分かりそうな手掛かりは絶対に残しちゃいけない。それだけは守って。前も言ったでしょ、この時間はヒイラギだけがとっておいて。」
 ますます痛む腹。これでもし、二度と夢が見られなかったら?あの方法でこの場所に辿り着けなくなったら?心の底から大好きな恋人に二度と会えないとなったら俺は耐えられるのか?
「なんかさ、もしここで俺が引いたら、二度と会えない気がするんだ。この場所に永住するのは難しいと思う。夢を見たことは覚えてても、その中身を忘れちまったら?」
「それはヒイラギ次第でしょ。本気で好きなら、いつでもここで待ってるからさ、だから…」
 彼女の言葉を遮ったと気付いたのは、「でも!」と叫んだ直後だった。
「俺、自信ねぇんだよ!忘れたくなくても、夢なんていつか忘れちまうかもしれねぇ!せめて何か手掛かり残しとかねぇと不安なんだよ!分かってくれよ、頼むよ…。色々大変だったんだろうけど、そうだ、俺と現実に戻って暮らさないか?俺、まだ何も決まってないけどさ、今の俺が消えないうちにさ、一緒に…」

「もう、黙ってよ!!」

 広大な黒に、絶叫が響いて消えていった。そして、絶叫の次に聞こえた音は、左の鼓膜を直撃したような、手のひらが頬に当たった音。

「セイラ…?」
 下腹部と頬の痛みに耐えながら、涙を流す直前で彼女を見た。ずっとスウェットで隠していた腕が露になっている。袖を捲ったのだ。そして、肘から手のひらにかけて、無数の青痣が皮膚を覆っていた。流れかけた涙は一瞬で枯れ果てた。

Next…


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