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高度1億メートル 03

Before…

【五】

 高度・1億メートル。今まで一度も考えたことのない桁値。今自分は、そこにいる。不思議な少女と一緒に。夢の、中で。
「1億メートルって、キロメートル換算したら1万キロか。」
「当たり。すごいでしょ?」
「すごい。夢の中ってのがまた。」
 のんびりまったり、間近の月を見上げながら団子を食べる。こんな贅沢なお月見は二度と経験できないだろう。最後のひと玉を食べ終えた時、足元に先程シュークリームの袋を捨てたゴミ箱があった。
「えっと、気が利くね。ありがと。」
 ん-、っと伸びをしてセイラは立ち上がった。二本目の団子を手に取り、ひとつ目をぱくっと食べて幸せそうな顔をする。
「不便なところもちょこっとだけあるけど、すっごく居心地がいいんだ。そう思わなかった?」
「すっげぇ思う。ここに来る直前まで、すっげぇ焦ってたんだ。俺あと二週間もすれば学生じゃなくなって、社会に出なきゃいけないのにさ。何も決まってなくて、周りのダチはみんな卒業したらどっかしらに働きに出る。俺だけ、我儘言いながら何もしてなくて、まるで野良犬だよ。どうやって生きていくかも分からなくて。結局現実逃避だけど、ここにいると何だか悩まなくていいような、なんつーか、安心できた。」
 セイラは蕩けた目つきで、座り込む俺を見つめる。
「現実逃避、かぁ。でもさ、現実があるから夢を見るんでしょ?現実から逃げた場所が夢なんだから。だからさぁ、ここは夢であり、現実なんだよ。逃げてない。ってか、逃げてもいいんだよ。決めなきゃいけない時にちゃんと決められるなら。」

 セイラが団子を食べ終えた時、俺も立ち上がった。逃げてもいい。決意の時までは。その言葉は妙に心に残った。
「おっ、ヒイラギ。お迎えが来たよ。一回ここに来れれば、また来るのは難しくないよ。よかったらまたね。楽しかったよ。」
 だらりと余った袖を垂らしながら俺に手を差し伸べる。俺もその手を握った。握手。
「あと、ここは内緒ね。この楽しかった時間は、ヒイラギの中だけにとっておいてね。」
 頷いて手を離した瞬間、俺は落下し始めた。驚く間もなく目を閉じた。

 目を開くと、寮内の部屋で寝ていた。自分の部屋だ。コンビニにいたはずなのにと思ったが、考えても仕方ないと思い、手近な紙切れに「高度1億メートル」と書き残した。その時、扉をノックする音が聞こえた。
「ヒイラギ、飯行こーぜ。」
 ナオトの声だ。「おう」と返事をして上着を着て、食堂へ行った。

 食堂では、先に数名が料理を取って席を確保していた。呼ばれるがままそこに合流した。
「ヒイラギ、進路決まったか?」
「いや、まだ…。」
「とりあえず食っていけるだけのことは考えとけよ。実家戻りたくないのも話聞いててわかっけどさ。コツコツ貯金してけばすぐ出られるよ。」
「そうだなぁ。まぁ、今のバイト先最悪実家からでも通えなくはないから何とかなるか。」
「たださ、めっちゃ遠くね?まぁ、本人がいいならいいけどさ。」
 仲間思いの友人たちだ。自分がこの先どうするか決まっているという心の余裕もあるのだろうが、約四年間苦楽を共に経験してきたメンバーだ。だからこそ、この「絆」のようなものができたのだろう。見下されているような感覚は全くない。身を案じてくれている。彼らも新しい世界へ羽ばたくのに少なからず不安もあるだろうに。

 食事を終えて部屋に戻り、実家からバイト先へ電車で通勤するとどれくらいかかるか調べてみた。寮から約一時間、実家からだと二時間は見ないといけない。往復四時間、時給千円と少し。家を出るには、どれくらい働けば金が用意できるだろうか。深い溜息が出た。
 とりあえず煙草を吸いに行こうと、部屋を出て原付のエンジンをかけてイロドリと会ったコンビニへ行った。あのミルクプリンが二つ残っていた。無性に食べたくなって二つ買うと、レジで店長がからかってくれた。
「よっ、ヒイラギ。デートでもするのかい?」
「やめてくださいよ、この寮生活でどうやってデートするんすか。」
 苦笑いをしながらお金を出す。店長とは大学二年の頃に知り合った。学生思いの優しい店長だ。俺が愛飲しているエナジードリンクも、俺が買うからという理由で入荷してくれた。色々と世話になりっぱなしだ。
「スプーン二つ入れとくな。卒業後はどうするんだい?」
「まだ考え中っす。あと二週間もないですけど。」
「いざとなったらうちで働いてもいいよ。まぁ遠いし現実的じゃないけど、どうしようもなかったら声かけてくれよ。」
「すんません、あざっす。それじゃ、おやすみなさい。」
 煙草を一本吸って、部屋に戻った。プリンを冷蔵庫に入れようとした時、店長が言った「デート」という言葉が脳裏に蘇った。もし、セイラと一緒にこれを食べられたら、セイラに一つあげたら、セイラは喜ぶかな。

 部屋の鍵を閉め、イロドリがやったように指にビニール袋を縛って目を閉じてみた。膝を少し曲げ、思いっ切り飛んだ。目を開くと、あの銀河の中にいた。しかし、セイラの姿は見えない。夢の中には来られたのか、偶然似たような夢を見ているだけなのか。
「こっちこっち、ヒイラギ張りきったでしょ。可愛いねぇ。」
 今度は下の方から声がした。見ると、多分建物二階分くらい下の方でごろりん、と仰向けになってセイラが手を振っていた。
 階段をイメージし、少しずつ下ってセイラのもとへと辿り着いた。
「コンビニでこれ見てさ、会いたくなって来ちまった。迷惑じゃなければ、一緒にこれ食べない?」
「おー、わたしの大好物。これは何個食べても飽きないんだ。迷惑なんかじゃないよ。ひとりでここにいてもパソコンかたかたするだけだし。一緒に食べよ。」
 セイラは起き上がって、背中を俺に預けた。背中合わせでホイップクリームたっぷりのプリンを二人で食べた。背中から全身へ、そして全身から心へとぬくもりが広がり、焦燥感が無くなっていく。
「一人で食おうかなって思ったんだけどさ、ちょうど二個これあって、またセイラに会いたくなったんだ。二人で食った方が、やっぱうめぇわ。」
 くるりと振り向いたセイラの口元には、クリームが少しついていた。
「クリーム、ついてるよ。セイラも可愛らしいな。」
 口が滑ったというか、セイラの口癖だと思った「可愛い」が移ってしまったのか、小恥ずかしい台詞を放ってしまった。セイラはとろりとした目のまま舌でぺろっと舐めて、「えへっ」とでも言いたげににっこりと笑った。
「わたしも、せっかくなら一人より二人かな。ぼっちに慣れちゃったからかなぁ、これひと際美味しいよ。」

 心の底から温かさというよりも灼熱の感情が込み上げてきた。その感情の正体はよく知っている。何度も味わっては実らなかったこの気持ち。もしかしたらもう二度と会えないのかもしれない。たまたま同じ夢を地続きのように見ているだけで、もうセイラという少女には会えないのかもしれない。後悔は、したくない。

「セイラ、好きだ。友達としてじゃなく一人の異性として、セイラのことが好きになっちまった。本当に好きだ。」

 セイラはにこやかなまま、スウェットの袖を俺の頭の上に乗せた。そして、その手で俺の頭を撫でた。プリンの空き容器に、雫が一つ落ちた。

Next…


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