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高度1億メートル 06

Before…

【九】

「おぉ、びっくりしたぁ。しばらくぶりだね。どーしたの?」
 自分が一番行きたくて、一番会いたい人の目の前に降り立つことができた。袋を開き、プリンを差し出す。
「こないだお金もらったから、お使い行ってきたよ。」
「やったぁ。でも、それだけじゃないんでしょ?ヒイラギ分かりやすいから。顔見ればだいたい分かるよ。一緒に食べよ。姉ちゃんが話を聞いてやろう。」

 今日のプリンの甘さは、ずたずたに荒んだ心に染み渡る。増して愛しい人と一緒に食べているんだから、尚更だ。
「仕事探しててさ、三つ応募してみたんだ。でもその日の内に不採用が三連発。今までなぁなぁで過ごしてきたツケが、今になって津波みたいに押し寄せてくる。どうしたもんかなぁ、ほんと。」
 ゆっくりとホイップを食べていたセイラの手が頭に乗り、スウェットの袖が顔の前にてろんと垂れた。
「よしよし、就職って難しいってか大変だよね。わたしもよーく分かる。今の仕事に辿り着くまでいろーんなことがあったもん。やっとこさわたしの世界が出来上がって、のんびり生きてるけどね。ヒイラギ、負けるなぁ。姉ちゃんが応援しているぞ。」

 セイラがいつも与えてくれる不思議な居心地の良さが、いつも以上に深く優しくささくれ立った腹の中を滑らかにしてくれた。
 前に来た時のように、パソコンの裏にいつの間にやら珈琲マシンが置いてある。
「セイラ、何飲む?」
「んーと、いちごオレ。」
「おっけ。」
 いちごオレと珈琲を持って、セイラの隣で横になった。パソコンの画面をじっくりと見るのは初めてだった。折れ線グラフが画面中央で忙しなく上下している。そしてグラフの周りには夥しい数の数字が吹き出しの中で変動を続けている。
「これって、セイラの仕事?」
 至近距離でこちらを見つめ、にっこり笑うセイラ。
「やっと慣れてきたんだよ。夢の中でも、ちゃんとやらなきゃいけないことはやらなきゃいけない。逆に言えば、ちゃんとやることやってれば私はここにずーっといられる。超便利で、ちょこっと不便だけどね。」
 くぴくぴといちごオレを飲み、時々マウスをクリックしては画面を眺めてお菓子を食べている。俺には何が起きてるかさっぱり分からない。
「極星銀行、っていうんだよね。わたしが始めたのに、わたしにも仕組みは理解しきれないんだ。でも、夢の中で悩んでる人の助けになってるのは確かみたい。わたしの知らないとこにもう一個脳味噌があって、そっちの脳味噌が勝手に操作してくれるような、よくわかんない。」
 えへへ、と言いながらくいっといちごオレを飲み干し、ゴミ箱に空の容器を捨てた。俺も珈琲を一気に飲み干して同じように容器を捨てた。
「きっとヒイラギにも、自分に合った仕事が見つかるよ。わたしはここで疲れたヒイラギをお迎えしてのんびりすることしかできないけど。」
「いいんだ、それだけで幸せだよ俺は。このひと時が無ければ、もしかしたら去年みたいにメンタル死んでたかもしれない。セイラがいてくれるから、何とか俺は諦めずに生きてる。ありがとう、セイラ。」

「少し、踊ろうよ。なかなか経験できることじゃないよ、空と宇宙の境界線で二人踊るなんて。」
 セイラの手をスウェット越しに優しく握り、立ち上がる。
「でも俺、ダンスなんてやったことないよ?」
「だいじょーぶ。身体が分かってるから、流れに身を任せたまえ。あ、流れ星だ。」
 俺にも見えた。細く鋭い閃光が一本、少し遠くで煌めいて消えた。
 セイラの手を取り、セイラの舞に合わせてステップを踏み、身体を回し、優雅に踊った。生まれてこのかた舞踊なんて経験したことは無いのに、身体が、心が踊り方を理解している。星と星の間を縫い、月の周りで二人華麗に刻むひと時。セイラの腕に背中を授け、月の前で舞を終えた。そして、セイラはくちづけの一歩手前まで顔を近づけた。
「楽しかったよ、ありがとん。私も踊るの初めてだったけど、夢の中ってやっぱりいいね。やりたいことを、思うがままできる。」
「お月様、こんな近いんだね。俺もいっそ夢ん中で過ごしたいもんだな。」
「いつでもおいで。ただ、ここが夢ってことは絶対忘れないでね。」
 セイラとキスを交わした。唇同士が一瞬触れ合って、その瞬間に夢から現実へと戻ってきた。

 早朝、窓からは朝焼けが部屋を照らしている。セイラの最後の言葉が妙に引っ掛かった。もしも夢なら、俺が買ってきたスイーツはどこに消えた?イロドリの連絡先が現実の携帯に登録されたのはどうして?そしてこの唇にまだうっすらと残る柔らかさは?

 原付を引っ張り出して、いつもと違うコンビニに行ってみた。いちごオレが置いてある。ホットスナックコーナーから鶏の竜田揚げを購入し、朝飯を食いながら煙草を吸う。肉汁のしょっぱさが煙草を美味しくしてくれる。食べ終えた後のデザートとして飲むいちごオレが塩気を甘さで流していく。

 ここは現実、だよな…?夢の続きではないよな…?
 今まで夢を見ることは多々あった。しかし、地続きの夢は経験したことがない。今の俺は、夢から醒めているんだよな…?

 ゆらゆら揺らめく朝焼けの太陽が不安を加速させる。吸いかけの煙草を灰皿に投げ捨て、いちごオレを一気に飲み干してゴミ箱へ捨て、原付を最高速まで飛ばして勢いよく寮の敷地に飛び込んだ。

Next…


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