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ありがとう、整くん

※このnoteには末期がんだった父の最期の様子が含まれます。苦手な方はまた別のnoteでお会いしましょう!

ミステリと言う勿れをまた観ている

地上波に心惹かれない日が続いて、Tverを立ち上げてみたら、ビションフリーゼみたいな菅田将暉がいた。

既に2022年の冬に一度観終わったシリーズだけど、菅田将暉演じる久能整(くのう・ととのう)くんのキャラが好きで、また観てみようと再生ボタンを押した。

まさか泣かされるとは思わずに。

第一話、伊藤沙莉が演じる風呂光聖子(ふろみつ・せいこ)は男だらけの強行犯 一係に所属する女性巡査。最近、看病していた愛猫がふと目を離した隙に亡くなってしまったというショックな出来事が起こったばかり。

そんな風呂光に整くんは「(その猫は)きっと、風呂光さんのことが大好きだったんですね。あなたに死ぬところを見せたくなかったんです」と声をかけるのだ。

そういうのって、猫に限った話じゃないですけどね。うちの母方の祖母も入院中、そばに誰かいつもいたのに、一瞬 人がいなくなったのを見計らったように亡くなりました。

母は嘆いていたけど、僕は祖母の意志だと思う。強くて優しい人だったから、だから死ぬときに見られたくなかったし、見せたくなかった。

それは、祖母の 猫の プライドと思いやりです。

思わず早戻しして、テレビ画面をスマホで動画に撮るくらい、ごちゃごちゃのピースがいきなり整列しだしたような、階段を10段くらい駆け上がって視点が変わったような、そんな興奮があった。


じくじく膿む後悔

「みんな、やることはやったから、お父さんにああすればよかったとか、もっとこうすればとか後悔するのはやめようね」と、父が亡くなった朝に交わした母との約束。

だからわたしも、父と過ごした時間を振り返って「後悔」を探すのはやめようと心を保ち続けてきた。ただやっぱり、そんななかでもじくじくと、かさぶたが出来ては剥いでを繰り返すような光景が頭をよぎることがある。

それは父が亡くなる朝、8時頃。
正直、わたしは父の亡くなる瞬間に立ち会えたかわからないのだ。そばに一緒にいてあげられたのか、曖昧なのだ。

あんなに母もわたしも変わるがわる寝室に足を運んでいたのに、父はもしかしたら、母もわたしもいない瞬間に、ふっと意識を手放したのかもしれない。そんな瞬間に、父はひとりぼっちだったんじゃないかと、心にじくじくと後悔や痛みが残った。


根性の化身、父


父は、亡くなるまでの1週間、ベッドからは起き上がれず、言葉もほとんど話せない状態であってもなお「病気が治ること」を決してあきらめない人だった。

母がふざけて「温泉行きたかろ。お風呂でも入る?」と聞けば、わりと本気で「入る」と答えてわたしたちを狼狽させた。自力で歩いて風呂場に行けるはずだと自分自身を信じていた。

波がある体調の中で、あくまで"今"だけが不調なだけであり、数日後には復活している気が満々だったので「捻挫が治ったら元に戻れるけん、心配すんな」とわたしにこっそり伝えてきたこともあった。(捻挫についてはスイカエピソードをどうぞ)

とにかく最後まで「闘う」姿勢を崩さず、ど根性の人だった。

最たるエピソードは亡くなる数時間前の深夜のこと。父の呼吸が苦しそうだったので、緩和ケアの先生を自宅に呼んだ。

真夜中だけれど駆けつけてくれた先生は、直に身体に鎮痛剤を送る管を父に差して様子を見守った。そんなとき「普通、このお薬をポンプで入れるとすぐ寝落ちされる方が多いのに、●●(父)さんは全然眠らないですね……、もうこれはほとんど気力です」と言われたのだった。

あぁ、そうかと思った。
思えば父は一昨日あたりから、寝落ちしてもすぐに目をカッと開いて天井を凝視してる時間が増えていた。鎮痛剤もどんどん強くなると意識も体力も削られる。「寝たら(目を閉じたら)天国に連れて行かれる」とでも思っていたのか「寝てなるものか」という気合がすごかった。

病気になると、わかりやすく見た目は弱るし、できていたことができなくなることだって多いけど、精神だけは変わらないんだと思った。父はとにかくど根性人間で、頑固で、負けん気が強くて、プライドが高くて、かっこつけで。その血を継いだわたしがいうのだから確かだ。

ああ、父はわたしの知ってる父のままいまも病気と闘ってると思うと、先生の言葉を聞いて誇らしくもなった。場にそぐわず、頭の中で「うわぁそれ、超!父っぽい!!」と感嘆した。

そこから、亡くなるまで父はほぼ目を閉じなかった。


泡の音

亡くなる日の朝、わたしは父の寝室を映す見守りカメラの映像を見ながらリモートワークを開始した。

よし、呼吸してる。生きてる。目が開いてる。あまりに生死の境が日常に馴染みすぎると、たったそれだけの安心材料で普通に仕事を開始できるものだ。

余談だが、終末期のガンを申告されると「いつか訪れるその日のための説明書」をもらう。亡くなる1週間前、数日前…‥次第に身体はこうなるよ、と順を追った説明とイラストが描かれているのだ。その中に、死期が間近になると泡ぶくのような音のする呼吸になりますよ、という説明があって。だからこの呼吸音に変わってしまったら、いよいよ"あと数日"だと覚悟すべきだな、なんて思っていた。

リビングで、すぐ隣の寝室から漏れる父の呼吸音に耳を澄ませながらキーボードを打つ。母は家の奥で洗濯機をまわそうとしていた。

すると、「あれ、いま一瞬、泡っぽい音がしたな」と、はっとしてモニターを見ると父が目を閉じていたのだ。

「めずらしい……」と思いながら念のため寝室に行き父に顔を寄せると、目を閉じたまま大きく息を吸った。でもなかなか吐き出さない。やっと吐いてくれたけれど、一呼吸がゆっくりすぎる。なんかちょっとやばいかも、という感覚があって大声で母を呼んだ。

「目閉じてる、息がおそい、」なんてことを伝えて、父の介護ベッドの両サイドからわたしと母が手を伸ばす。父の胸に手をのせて呼吸を確認する。あ、また息吸った。……うん、もう、吐かないね。母と顔を見合わせて、もう父の呼吸が続かないことを悟ってぽろぽろ泣いたのが最期の瞬間だった。

こうやって書くと、最期に立ち会ってるやん。
と思われるかもしれないけど、長年父の性格を知ってるわたしからすると、そしてここ数日の父の闘病を思うと「目を閉じる」この瞬間こそ父がふっと力を抜いた瞬間だったのではと思わざるを得なかった。

最期の2-3呼吸は父の「容れ物」の最期であって、父の意志や魂みたいなものがふわっと浮かんだ瞬間は、目を閉じた瞬間、それこそ泡ぶくの音の瞬間だったんじゃないかと、勝手に想像してしまったんだ。

「あれ、だったら、父は最期の最期、ひとりぼっちだったの?」と思うと「ごめんね」の思いがどうしても強くなってしまって、できればくっきり思い出したくはない光景のひとつになってしまっていた。


それがプライドなら、許す

が、そこにきての、整くんの発言である。
「死ぬ姿を見せたくないからわたしと母のいない瞬間を狙って亡くなった」とするならば、ふたたびの「うわぁそれ、超!父っぽい!!」である。超超超父っぽい。それが父のプライドだったといわれたら、それも大腹落ち。

正直、ドラマではわたしにとってのその名言のあとにすぐ、尾上松也演じる池本が「ないない!自分で自由に死ねるわけないっしょ!」と笑い飛ばしてしまう。それもわかってる。父は最期までど根性の人だったことも、最期はきっと父のプライドだよということも、結局は希望的観測でしかないのだけど、そう思えた方が心があったかいのだ。

最期、もしかしたらそばにいてあげられなかったかもしれないの、ごめんね。
でも父もさ、よりによってわたしも母もいないときに何も言わず旅立つなんてひどいじゃん。さびしいじゃん。
すぐそうやってかっこつけたがるよなぁ。
ただ、それが父のプライドだったんなら許すよ!
最期まで父は父だったね。
今日は父との思い出に違う視点がうまれた日になってすこし気分がいいんだ。

ありがとう、整くん

母ちゃんとのLINE
母は自分を🐽と表現する

おわり

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