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我々は太陽の光と街灯の光を見分けることが出来るのか。

皆さまは、夜に光へハエが集まっているのをご覧に入れた事はあるだろうか。
今回は走光性の観点に絞り、お話させて頂く。

虫は走光性と言われる、光に対して一定の角度を保ち移動する能力がある。
これにより、安定して飛ぶことが出来るわけだ。
例えば、自然界では太陽や月の明かりを頼りに移動する。

太陽の場合:ハエを猫で代用

しかし、街灯の光は電球を中心に放射状に発せられる。
なので、光に対して一定の角度を保とうとすれば、おのずと街灯の周りをぐるぐると回ることになる。

街灯の場合:ハエを猫で代用

そうして、街灯へ群がるハエの群れが形成されていくわけだ。
街灯に群がるハエを見て、愚かだと思うだろう。
思わない方もいるだろうが、大人しく私の価値観を受けれて欲しい。

しかし、ハエ達は本当に愚かなのだろうか。
光に対して一定の角度を保つ、走光性は本来自然の中で正しく導かれる為に獲得した機能である、その、機能が愚かであろうか。

ふと、我々人類に目を向けていると似たハエと似た問題を抱えてるかもしれないと思ったのだ。

少し話はズレるが、我々人類の種が地球の覇者となれているのには宗教が関わっているという説がある。

人類が猿と明確に決裂し、集団を作り組織化される際にある限界があった。
それは、ダンバー数と言われるものだ。
特定の種族が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限であり、人間は150程度とされている。

勿論、動物によってダンバー数は様々であり。
この数が群れの上限の数と言われている、しかし我々人類は数千という束になり社会性を構築し欲望を他種へ向け絶滅まで追い込む事が出来る程の力を秘めている。

これには諸説あるのだが、認知ではなく特定の何かを信じる信仰が群れの上限の数を引き上げたという説をここでは採用する。

これにより、他種族を突き放し社会性により記憶の引継ぎと集約・集団労働により我々の自然界における現在の地位を確立した。

また、地理学と文明の観点から見ても宗教の重要さが分かる。
世界3大宗教というのがあり、各宗教の教典にはある種の合理性が見られる。

厳しい砂漠では資源を節約し、他者との協力が必須だ。
そこでイスラム教では酒類を禁じた。
なぜならば、酔って資源を無駄にしないようにするためだ。

このように、文明の発展と維持において宗教は確実に役立っているのだ。
キリスト教等の多くの宗教で見られる隣人愛などはモラルを高め集団の質を向上させ。
ある種の社会セーフティーネットとして機能することで貧困やモラルの欠落による犯罪を抑止できる。

つまり、社会性動物である人類の発展に宗教は必要であり。
信仰が人々の行動に一定の基準を設け、人類を導いているということだ。
また長い人類史において、信じる事は人類に刻まれた何かしらの本能であるとも言える。

しかし、この宗教も時には一部の人類を破滅させる。
具体的な法人名を出すと街宣車が来るらしいので控え、カルトと定義する。

カルトは心が暗く弱った時に、すり寄ってくる。
そして、それが大切なモノであると錯覚し群がるのだ。

これは、ハエが真っ暗な環境で街灯を月だと勘違いし群がるのと似ているとも言える。

両者は外から見ればまるで滑稽で馬鹿らしく見える。
しかし、ハエが問答無用で街灯に吸い寄せられるのを見ると。
我々人類も、暗く弱った環境であれば意図も容易くカルトに飲み込まれるのではないだろうかと思った。

我々は、太陽の光と街灯の光を見分けることが出来るのだろうかと不安になる。

勿論、太陽に照らされる間はハエが街灯に吸い寄せられないように。
人間も正常な精神がある間は、カルトに吸い寄せられないだろう。

しかし、どこに正常な精神を保ち続けられる証拠があるだろうか。

おまけ
最後まで読んで頂き有難うございます。
宗教に対抗するには宗教しかないのかな~と思ったりします、初詣程度の信仰心でカルトから逃れられるなら良いのですけどね。

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