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人生の分岐点だったCLUB CITTA’

若い頃、と言っても就職してから妊娠がわかるまでの間なので5年ほど前の話なのだけれど、私はよくライブに行っていた。

頻度としては、一般人より多いけれど本当にライブにハマっている人より少ないだろうと思う。大体月に一度は必ず行くと言った感じで、多くて月3回程だった記憶がある。遠征もそこまで気合を入れて足を伸ばすといったことは無くて、それでも大阪、名古屋、浜松には行った。独身貴族なので新幹線で優雅に漫画を読みながら移動する、それもまた旅の醍醐味だった。ライブ後に新幹線の中でかき込む駅弁も美味しい。

さて、色々なライブを見にいったわけだけれど、実はタイトルに書いたCLUB CITTA’はライブ会場としてはほとんど印象にない。行ったのは2017年6月初旬の一度だけだ。浦和の職場から早上がりで川崎へ向かう。ギリギリまで仕事が立て込んで開演2分前に息を切らして飛び込んだのを覚えている。ライブの内容もツアー初日だったので、まあ全体の盛り上がりも普通だったし、そもそもいつも前の方で見ていたので遅刻しての最後尾は見えにくいなぁと思っていた気がする。目の前でモッシュが起きたので、独りで盛り上がりたい派の私は避けた。

変化が起こったのはライブの終盤。最後尾とはいえ、この時も暴れ盛り上がり倒して、ふと疲れて佇んだ時に、心がざわざわした。私はこの頃、いつも終盤になると心がざわざわしていた。

「私は、ここで何をしているんだろう?1人で髪を振り乱して、家に帰ったら親の作ったご飯食べて…その繰り返しじゃないか?40歳になった時、私は同じ生活をしているのか?今の私は、それでいいと思う?」

という疑問が浮かぶようになったのだ。この時私は29歳。つまりステージのライトを見るふりをして、約10年後を見ていたのだった。

そして、なんとなくこの日は答えが出た気がした。

「10年後の自分は、独立して家庭を持っていて欲しい。今の生活を10年後も続けるのには限界があるし、正直に言って私は10年経ったこの状態の自分を、誇りを持って見つめられる自信がない。」

この時、私は当時一緒にいたゆうきさんという元彼に依存状態だった。ゆうきさんはとっくに熱が冷め、私になんの魅力も抱いていないのに、私は会う度の一瞬の享楽を求めてゆうきさんにしがみついていたのだった。ゆうきさんには3回逆プロポーズをして、3回とも即答で却下された。結婚願望が皆無の人だった。

ライブの後、私はゆうきさんに連絡するのをやめた。こちらから連絡さえしなければ、ゆうきさんとの縁が切れるのは分かっていた。ゆうきさんにとってもはや私はその程度のちっぽけなものだった。

そこからはあっという間だった。1ヶ月もしないうちに、私は結婚相談所でアプローチが来た男性とカフェでケーキをつつきながら話し込んでいた。今の夫だ。さらに1年後、既に私は結婚指輪をして新居に住み、息子を身篭っていた。ポイントを切り替えた瞬間、ものすごい勢いで私の人生の次の幕が始まったのだった。

あの時、もし私が「このまま同じ生活を送る」と選択したら、今はどうなっていたのだろう。私は10年後の人生を想定していたが、既に4年目で当時の生活を脅かすアクシデントが発生している。この時世での度重なるライブ中止、ライブを決行したとしても高齢になってきた親の反対に揉めながら会場に行くことになる。もしくは、私の職場は医療機関なので職場からライブに行くことを禁止する通達が出るかも。そうしたら私には、何が待っているのだろう?想像すると、少し怖くなるのだった。誇りを持って生きていけるか。希望を持って生きていけるか。

そして、ゆうきさんとのことも。彼との交際は親に秘密で、職場での飲み会と称した逢瀬だった。飲み会の大半が禁じられた今、ゆうきさんと会う口実は無くなってしまう。あれだけ依存していた私がゆうきさんに会えなくなり、ライブにも行けなくなったら。私は孤独で絶望し、後悔していたと思う。友人たちのように家庭を持っていたらと、私ならきっと思うだろう。もちろん独身を謳歌している人たちをたくさん知っているけれど、私は以前から家庭を持ちたかった側の人間であるというのはもっとよく知っている。

人生は分岐点の連続で、そのうちのいくつかは後々決定的な相違を生むことになる。そういった分かれ道の一つが、小綺麗に整備されてライトのたくさん灯ったCLUB CITTA’の道にあったのだった。

今、育児に追われて、夫を愛しているし子供は可愛いけれど、それでも疲労でどうしようもなくなる時がある。その時にあの夕闇を照らすライトを思い出すようにしている。私はこちらの道を確信を持って選んだのだと。



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