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グレープジュースは甘すぎる

グレープジュースは甘すぎていけない。

甘すぎることに後悔すると思っているのに、リンゴジュースのほうが良かったなと思うと分かっているのに、それでも時々飲みたくなるから不思議だ。

炭酸でもあればまだ飲めるのだが、ファンタグレープを1本丸々飲めるような季節でも年齢でもない。

あれは、小学生から、スラックスからシャツの裾を出しても様になる中学生までの、蝉しぐれ響く夏休みにこそ似合う飲み物だ。

まだ肌寒い日の続く3月に、社会人男性が飲むようなものじゃないのだ。


思えば遠くに来たものだ。

あの頃は、自分が将来働くなんて嘘だと思っていた。

それが今では、仕事の愚痴ばかりを言っている。

愚痴を言うのは何も進展を産まないけれど楽しい。

時間を溶かすには、あれ以上の娯楽はない。


働いていると、誰しもにかつて学生時代があったことを忘れそうになる。

目の前にいる人たちは、最初から会社員だったように思えてくる。

しかし、自分の親に青春時代があったみたいに、私自身がそうであったように、その人たちにも若かれし頃があったのだ。


これは、外見のことを言っているのではない。

むしろこれは、内面のことを言っているのだ。

かつてみな、若者だった時期があり、なにか流行りに殉ぜねばならぬと躍起になった時代もあったのじゃないか。

そんなことをふと思うのだ。

「アイドルといえばAKB48」だと、2020年代に思い込んでいる、おじさんたちを見ながら――。


私はそれを揶揄したいわけではない。

むしろ、そのほうが正常なのだと思う。

「ヨルシカ」と、「ずっと真夜中でいいのに。」と、「YOASOBI」と、「夜に駆ける」がごっちゃになるぐらいのほうが。

仕事の自己研鑽もロクにせず、そういったものばかり追うほうがおかしいのだ。


いつの間にか、生きているうちに価値基準が、然るべくして変わったのだ。

誰も悪いわけではない。

むしろ、それに気づかなかったほうが悪い。

これは、そういう類の話だ。

誰しもが「成熟」の過程で、自然となにか熱中すべきものを変え、そして今度はそれに殉じるようになっていく。

それは往々にして、仕事だったり、家族だったり、その両方だったりする。

これは、単にそういう話なのだ。


おじさんになんてなるものか、と思っていた。

しかし、むしろ適度におじさんにならないと、むしろ気持ち悪い年代が、次第にその足音を大きくしてきている。

おじさんは、当然上記のバンドや曲名の区別はつかない。

乃木坂46を知っていれば御の字で、白石麻衣はいまだに卒業していないと思っている。

それでいいはずなのだ。

それなのに、私はいまだに、カルチャーに縋る以外の生き抜く術を――その業界で食べていっているわけでもないくせに――知らなすぎる。

かといって、「うっせえわ」と社会に中指を立てる勇気もない。


甘ったるいジュースを飲みながら、衰えた嗅覚で音楽をディグる。

意欲の衰えた足で書店に向かい、適当に小説を何冊か買う。

いつも聴いている芸人のラジオを、radikoのタイムフリーで聴く。

そうやって、私の生活は回っている。

ああ、こんな歳になったのに――なんだか思春期の頃から、まるでなにも変わっていないような気がする。

思春期が、自意識の膨らむ若気の至りの季節が、終わってくれたような気がしない。

腐りかけの水蜜桃みたいな唾液を垂らす、醜い青春ゾンビの完成である。



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