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『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』は誤解されてるけど王道の名作【あいまいなもの】

私は子供の頃、図書館のビデオコーナーで毎週のように映画ドラえもんを観ていました。
そんな私は当時、『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』を観て、あまり意味がわからず『世界はグーチョキパー』というやたら明るいエンディング曲を聞きながら、ずっと頭にハテナが浮かんでいました。
夢と現実を行き来して、なんとなくややこしかったのもありますが、全体的にどこかあっさりとしていたような気がしたのです。
一方で、『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』を観たときには、不安やおぞましさや恐ろしさを感じていました。
この2作品には、「ドラえもんがひみつ道具を出して、その道具が原因でどこかの世界に問題が起きてしまい、のび太達が悪者をやっつけて世界を救う」といった点が共通しています。
では、一見似たようなこの2作品には、どういった違いがあったのでしょうか?
そして、どうしてややこしく感じてしまうのでしょうか?
少しまとめながら見ていきたいと思います。




『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』の内容(※単なる本編のまとめなので読み飛ばしても問題ないです)

物語序盤、ドラえもんはのび太に好きな夢を見られるひみつ道具、『気ままに夢見る機』を渡します。
試しに夢を見てみますが、洪水の夢でおねしょをしてしまい、更には宿題を忘れてしまい、相変わらずのび太はうまくいかないようです。
そんなのび太の前に、不気味な男が現れて知恵の実を授けたことで、のび太は宿題を全問正解で提出することができました。
のび太の前に再び現れた男は、「夢幻三剣士の世界」をのび太にすすめます。
時を同じくして、ドラえもんの元には未来デパートから夢幻三剣士のカセットの案内メールが来ており、のび太のお願いに根負けしたドラえもんはカセットを購入します。
夜、夢幻三剣士のカセットで夢を見ようとするのび太でしたが、同じ時間にしずかちゃんは宿題をしており、「しずかちゃんはどんどん先に進んでいて君は取り残されて……頑張ってみる気にならない?」とドラえもんに窘められてしまいます。
ゲームをスタートすると、最初は学校の廊下でママと先生に叱られて追いかけられるところから始まりましたが、これは没入感を強めるためにおなじみの光景を見せているそうです。
そうこうしていると、夢世界の入り口に案内キャラクターの妖精シルクが現れ、「現実世界でダメな人ほどこの世界では立派になれる」とのことです。
ドラえもんからも「没入感を得るために主人公の性格や能力はそのまま」という補足が入ります。
そして、のび太は主人公として「腕前に関係なく強くなれる白銀の剣と兜」「竜の血を浴びた不死身の身体」を手に入れようとします。

物語中盤、夢世界でもひみつ道具を多用することをのび太に指摘されたことで、ドラえもんは4次元ポケットを封印し、さらに『気ままに夢見る機』の隠しボタンを押すことを決意します。
これによって、「夢と現実が入れ替わる」「話の区切りがついたらリモコンの隠しボタンを押して元に戻す」つもりでした。(あまりに危険では……)

それからのび太達は妖霊軍と戦闘し、夢世界を救おうとします。
そして物語中盤の最後に、妖霊大帝オドロームの攻撃でのび太は一度死にますが、竜の汗の効果によって一度だけ生き返ることができました。
気ままに夢見る機の隠しボタンによって現実となった夢世界で、のび太達はなすすべなく殺されかけますが、のび太のママがボタンを押したことで現実世界へと戻されて死を免れ、ゲーム『夢幻三剣士』でゲームオーバーとなります。
のび太達はこのままゲームを終えようとしますが、夢世界からシルクが「無責任だ、残された人達はどうなるの?」と現実世界に詰めかけてきます。
あれからユメルミ王国は妖霊軍の手に落ちてしまい、のび太達は責任を感じます。
ドラえもんが再び気ままに夢見る機の隠しボタンを押して、のび太とドラえもん(と意図せずアンテナを外さなかったしずかちゃん)は現実となった夢世界を再度訪れます。

終盤、のび太達はしずかちゃんの機転によってピンチから一転、妖霊大帝オドロームを倒し、世界に平和が訪れます。
王様の娘であるシズカリア王女は、最初反対していた白金の剣士との結婚を喜んで受け入れます。
そして、いよいよ結婚式か……といったところで、未来デパートから来たトリホーと似たロボットが、気ままに夢見る機を回収していってしまい、夢幻三剣士は終わりを迎えます。
結婚式ができなかったことを惜しみながら登校するのび太の元へ、シズカリア……ではなくしずかちゃんがやってきます。
しずかちゃんはのび太を夢に見て、かっこよかったわよと言い、2人で山の上にある学校への道を走るところで物語は終わりを迎えます。


【蛇足】
「現実世界でダメな人ほどこの世界では立派になれる」「没入感を得るために主人公の性格や能力はそのまま」「不死身の身体に腕前に関係なく強くなれる白銀の剣と兜」といったところには少しひっかかります。
この世界のアイテムによってダメな人の能力は問題無くなりますが、性格がそのままの場合ははたしてどうでしょうかね。


目覚めの世界と夢世界との関係と『パラレル西遊記』との違い


少しややこしいので、まずは『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』において、気ままに夢見る機の隠しボタンを押すまでの中盤、ゲームオーバーになってから終盤までの2パートについて、「のび太から見た」目覚めの世界と夢世界の2つの世界の関係を図でまとめてみます。
なお「のび太から見た」というのは、今作で世界が大きく変化しているように見えるのはあくまでのび太の主観的な話であり、例えばのび太ママにとっては現実は現実で何一つ変わっていないことを強調するために書いています。

『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』の中盤における2つの世界の関係(のび太視点)


『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』の終盤における2つの世界の関係(のび太視点)


このように世界の関係を把握したことで、よくネットで言われる「最後のシーンは学校がいつもと違う変な位置にあるから現実が侵食されたバッドエンドだ」という感想とは、違った考え方ができます。
まず、夢幻三剣士をスタートして夢世界の入り口前に「ゲームの現実感を強めるため」に、学校の廊下でママと先生に叱られて追いかけられることで、おなじみの場面を経験したことを思い返します。
すると同様に、夢世界を出る前には「現実へ段階的に戻るため」に、おなじみの場面である登校のシーンを経験していたのかもしれません。
そして、そのシーンで学校がいつもと違って山の上に建っているのは、まだ夢世界から完全に出る前のことだから、夢世界と目覚めの世界の両方の情景を反映していたためだと考えられます。
気ままに夢見る機は、ゲーム開始と終了の境界では、2つの世界を混ぜた夢の世界を見せているだけです。
目覚めの世界と夢世界の2つの世界は独立していて、それぞれの世界の人物が他方の世界に移動して、そこの人物に影響を与えることだけが可能です。
気ままに夢見る機の隠しボタンを押すことで「夢世界と現実世界が入れ替わる」というのは、機械の使用者が世界をどう認識するのかというあくまで主観的な問題であって、世界自体を変えてしまうほどの力は持ち合わせていないように思います。
このように世界があくまで独立している感じが、どこかあっさりした雰囲気を映画全体に与えているように思います。(人によっては今回の冒険のスケールが小さいと感じているみたいですが、これが原因かもしれません。)


【蛇足】
妖霊軍のトリホーが目覚めの世界でのび太を夢世界に誘ったことと、トリホーのような未来デパートのロボットが夢見る機を強引に回収したこと(という夢)を、2つの世界の出入り口で対比させたかったのかもしれません。
が、漫画版では未来デパートのロボットは違うデザインになっていたので、この考えは解釈を間違っているかもしれません。

さらに言うと、トリホーは目覚めの世界でのび太達に攻撃することができないというよりはしていないだけ?
のび太を消したところで、別の誰かが『夢幻三剣士』のカセットを購入して夢世界を救ってしまっては意味がない。
竜を殺せず不死身になれないだろうのび太に夢を見させて、夢世界を支配してしまいたいという考えがあるはず。
でも、のび太からまた別の誰かにソフトが渡ったらどうするんだろう?
その時には竜は死んでいるとか?
のび太達に助けを求めに行ったシルクを攻撃することができなかったのは、シルクの方が1枚上手だったのだろうか。


一方で、本文冒頭で触れた『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』はどうでしょうか?

『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』中盤から終盤の2つの世界の関係

こうして見ると、本文の冒頭で「『ドラえもんがひみつ道具を出して、その道具が原因でどこかの世界に問題が起きてしまい、のび太達が悪者をやっつけて世界を救う』といった点が共通している」とは言ったものの、2つの物語は全く違っているということが明らかです。
基本的にドラえもんは「未来と過去」や「日常世界とパラレル世界」を行き来する話が多いのですが、『のび太と夢幻三剣士』はいつもと少し世界の間の関係が変わっています。


そもそもこれはどういう物語なのか?

この映画は、ドラえもんの映画にしてはかえって特殊な王道の冒険譚、いわゆる『英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)』の構造をしています。
これは例えば『スターウォーズ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような、「主人公が、異世界へ行き、試練を乗り越え、報酬を持って現実の世界に帰ってくる」という王道の物語の構造です。

ドラえもんの映画は、日常の現実世界に影響を与えないように違う世界の問題をそこの中で片付けて、最後はいつもの日常で「あれは夢だったのかな、でも忘れないよ」みたいなことを言って終わりのパターンが多いです。
これは藤子不二雄先生が意図してそのような物語のルールを設けているためだそうです。
しかし、今作ではのび太は困難を乗り越えて最後に「報酬」を手にしています。
そう、その「報酬」は「現実のしずかちゃんからの承認」です。
最後のシーンのしずかちゃんは、のび太の夢の中のしずかちゃんではなく、気ままに夢見る機のアンテナを外さなかった、現実のしずかちゃんです。
したがって、シズカリア王女(中身はしずかちゃん)がノビタニアとなら結婚してもいいと言ったこと、登校中にしずかちゃんがのび太をかっこよかったと言ったことは紛れもなく、現実のしずかちゃんからの承認が得られ、更にそれを2人の夢の中でそれぞれ伝え合ったということです。
しずかちゃんはこれをひみつ道具によって見た夢だとは思っておらず、またのび太は夢世界に飛び込む前にしずかちゃんにこっそり付けたアンテナを外すように伝言していたので、お互いに現実の相手からそれを受け取ったとは思っていないと思われます。
そこがいいですよね。

この夢の中の物語はのび太の『英雄の旅』であり、ヒロインはしずかちゃんでした。
(なのでスネ夫やジャイアンの出番が無くて扱いが雑だというのは、残念ながら当然と言えば当然ですね……)


『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』という物語における主人公のび太とヒロインしずかちゃん

このように、主人公のび太とヒロインしずかちゃんに着目すると、実にシンプルで王道な物語であることがわかります。
しかし、この作品がバッドエンドか?などの誤解を生んだ理由には、2つの世界が何度も逆転したことや、2つの世界の境界が段階的に設けられていたことがあるのかもしれません


『世界はグーチョキパー』がエンディングにふさわしいと思う理由

挿入歌の『夢の人』はまごうことなき名曲で、これがエンディングだったら最高だったのにと思う人も少なくないと思います。
実際、この歌は劇中で何度も流れていて、勇ましく奮い立たせるようなかっこいい名曲です。
しかし、この物語のエンディングにふさわしいのは『世界はグーチョキパー』(武田鉄矢 作曲)だと私は思います。

この物語で私がとてもいいなと思うのは、のび太が冒頭から注意されていたような「宿題をちゃんとする」などの成長をしなかったことです。
今回の冒険でのび太は成長し、報酬を得ますが、あくまでのび太はのび太であり、宿題をやれるようにはなりません。
のび太は宿題をしないしできないし、どの夢のカセットにも文句をつけてすぐに放り出していますが、それでも立ち向かう勇気や優しさを持っています。
そして、中断した夢幻三剣士の世界からシルクがやってくると、「僕たちで助けなきゃ」といって、ユメルミ王国の人達のためにすぐに危険な夢世界へ飛び込みました。
のび太は戦闘や頭脳で敵を倒すことはできませんでしたが、不死身でなくても最後まで立ち向かうことができました。
そう、のび太はとても大事なことができる人間なのです。
ジャイアンやスネ夫の夢を邪魔して無理やり夢に参加させたことやしずかちゃんを巻き込みまくりなことには目をつぶって……

そして、これがエンディングの『世界はグーチョキパー』の歌詞です。

世界はひとつじゃ ないんじゃないか ねえ
――――――
世界/子供/町 はグーチョキパーで 楽しくなる/にぎやかに(略)
みんなちがうから あいこでしょ
――――――
だからぼくだけぼくのまね

武田鉄矢『世界はグーチョキパー』

世界は1つのことの勝ち負けで決まるわけじゃないよという、明るくもややちくりと刺す絵本のような『世界はグーチョキパー』という歌は、今回ののび太の物語に、そして現実を生きる子供たちへのエールとしてふさわしいものではないでしょうか。

一方で、『夢の人』の歌詞を見てみましょう。

夢みる力が おまえにあるかぎり
出来ない事は この世にない
――――――
おまえの名前は 正義

武田鉄矢『夢の人』

『夢の人』の歌詞における「出来ない事はこの世にない」の「この世」とは、夢の世界のことです。
そこでは、夢みる力さえあれば何でもでき、その世界では夢を見ている自分が正義そのものです。
いかがでしょうか?
とても勇ましい歌ですが、『世界はグーチョキパー』のみんなあいこで勝ち負けはないという歌とは対極にありますよね。
エンディングがもし『夢の人』であればあまりにもかっこよすぎて、夢から覚められないかもしれませんね。


以上です。
子供の頃の自分へ、伝わったかな?


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