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【小説】No.02 血と汗と涙と海と

 結局ぼくは、何者にも成れなかった。

 天国をオマージュした、歪な極彩が広がっている。楽園のオブリージュが足りないので、ここへ――海へ――来た。おおきく指の間を開いた手のひらは清廉潔白、真似事も、強制もない。
 浜辺に腰をおろし、砂を、ただ掬っては落とし、ただ掬っては落とす。細かな黄色は、強い風が吹けば、ぼくの頬を撫でるように汚すだろう。口を開くのに、わずか慄いた。砂を掬って――“死にたいのかな”――落とす。
 ぼくがいくら抑鬱的な思考を続けていても、誰かのいうようにフリルじみた波の端は、必然的に水の装飾を完了し、階段のように重なってはしなだれるのを繰り返している。まるでひとつの音楽のようだと思った。リズムの定期に乗り、まじないのような規則的なコードを活きる。思い出した夏の陽射し、きらめき、期待、作為的で無邪気な手遊び。
 それでもイノセンスや少女の裾とは似て非なると思う。
 なにが違っているのか。なにもかも同じ構成ではないからだ、包括や普遍みたいな海は、純潔から遠い。
 波々は何にも帰属せず健康と不栄養を振る舞う。やっぱり。こんなもの、純情ではない。
 感傷など塗りつぶされるように音を立て続ける。ほら。こんなもの、愛情ではない。

 それでも、抱えた膝を離せないのは、ここに、暴力的無関心と悲劇的無秩序があるからだ。――ぼくは、おそらく、そういった、自由に似た奔放を求めていたのだと思う。
 死んでもいいと言われたかった。ここにいなくても構わないのだと命令の身体をした祈りすらある。さざなみ。
 『おつかれさま』
 『もういいよ』
 『よく頑張ったね』
 冗談みたいだけど、脳の奧でエコーが泣いていた。自分でいることへの諦め。その肯定。母のララバイのような無常のさざなみは続いている。自問や吐露は、すべて暴露になっていく。
 手のひら、砂が濡れている。
 ぼくは泣いていた。
 顔を伏せて涙を流していたのだ。自分が涙を流しているのだと、認識した瞬間に、感情は出口を求めて急速に流れる。溢れ続ける目尻の熱は、張り裂けそうな活動を始めている。
 恐ろしくなって顔を上げたら、少女の足元で散らばる幸福に酷似した一瞬があった。ひたむきな純潔を見た。海は血に成れず、涙や汗より辛いだけ。片道、憧れ。それでも繰り返す。ずっとここで。さざなみ。
 太陽を無視する波音に、遠くで鳶がいなないている程度で、これといった特殊なことはなにもない。それでも、たゆたう空間にぼくの音楽は在った。ここにいなくても、なにも変わらない。さざなみ。なにも加えない。さざなみ。だから、なにもなくてもいい。

(了)

20230628 menof

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