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【小説】少女満月病(しょうじょ まんげつやまい)

 その日、月が落ちてきた。
 つぶらでおおきな、あなたの瞳に、月は落下したのである。

 わたくしは、あなたの友人である。
 あなたは、充血し腫れた涙袋で言う。「わたしがわたしを傷付けたの、そうしたら月が――」
 あなたは、両手で目を拭う素振りをするけれど、カラカラに乾いた瞳でいる。いっそう不可思議に思って――興味を以て――わたくしは、あなたの頬に手を添え、親指で両瞼を持ち上げ、瞳を見た。たしかに、あなたの瞳には、桃色の満月が在った。ふたつの満月が、こちらを見ていた。「美しい」とわずかばかりでも思ってしまったわたくしは、罪の匂いを思い出す。涙もなく喚く、いたいけなあなたの手首に目をやると、ためらい傷が規則正しい縞模様のようにある。
「ねえ、わたしは、もう泣けないの? こんなに悲しいのに」
 痛くて痛くて、たまらない。悲しくて悲しくて、たまならい。でも涙がひとつぶも浮かばない。あなたは銀河のような瞳で、訴える。「目に、目の前に、おおきな満月が見えるの。それからとても瞳が痛むの。剃刀で作った傷よりもよ」
 ――あなたに、満月に心当たりあるか。
 わたくしは優しさに努めたけれど、厳しい口調になる。あなたが、あなたを傷付けたから。
「誰もわたしを好きでいてくれないの。だから願ったの。お星様になりたいなあって。みんなの大切になりたい、みんなの焦がれる一等星になりたいって」
 わたくしは、あなたにとってわずか一人の友人であった。つまり、あなたのことが好きだった。あなたは、自分がどんなに非道なことを言っているのか、まるでわかっていない。わたくしは心のまま、あなたの満月は、望み通り、どんな一等星よりも光度があると告げた。
「……たすけて……」
 あなたはもう一度泣きたいと言った。それから、
「ごめんなさい、もうしないから、たすけてほしいの」
 ――命乞いをした。
 その瞬間、あなたの小さな海が決壊した。あなたは、おおつぶの雫を両目から絶え間無く流しながら、ありがとうとごめんなさいを、繰り返した。
 おそらく――わたくしは、あなたを許したのだろう。
 満ちた月の呪いじみた噺など、わたくしくらいしか信じない。肩を抱かれたあなたは、心のどこかで、自分の罪を知っている。罰を理解している。愚行の果てで独り寂しく死ぬことを、わたくしの代わりに、満月が忠告に来たのだと。

 泣き疲れ、やがて眠ったあなたの部屋を閑かに出て、外套の隙間を抜かりなく埋めるような冷たい風の吹く夜空を見上げる。煌びやかなオリオン光の先で、僅かばかり欠けた月が、やがて沈むために浮かんでいた。わたくしは、あなたから取り上げた剃刀を、羊皮紙にそっと包んで、捨てた。

(了)

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