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アンチテーゼ~遠慮は要らない

 僕はよく電話で話をする。会って話をする。SNSも使う。でもだからと言って、コミュニケーションがすべてうまく行っているとは思わないし、コミュ障だとも思わない。

 考え方が違う、感じ方が違う、優先順位が違う。人はそれぞれ。環境もそうだし、それすら昨日と今日では違ったりもする。

 母親を病気で亡くした僕は、それまでの僕とは違うのだし、結婚、子供を授かり、仲間とバンドを組んだり、イベントを開催したり、ネットで配信したり、何かを経験するたびに昨日とは違う自分になっている。

 特別なことじゃないのだけれども、オンリーワンの自分になって行きながらも、余計な力が抜けて、角も取れて、相手の気持ちを察したり、行動を予測したりできるようになって、人の付き合い方に余裕ができる。

 とはいえミスを犯さないわけではないし、納得しがたい出来事にはやはり最適解を得られずに身もだえをしながら悶々とすることも未だにある。

 ああ、これ、一度経験した奴だ。

 せいぜいただそれだけの余裕――ビックリしてフリーズしなくなった程度のことで、熟成したり、悟ったりっていうのとはまるで違う。

 そして案外と知識と経験を得ると孤独になる。ここまではわかってもらえるけど、ここから先は踏み込むべきじゃないなと遠慮がちになることが多い。初心者のとりあえずやってみないとわからないってことは、確かに少なくなるし、要領を得た分、冒険をしなくなる。

 帰り道、逃げ道を確保しながら自分のこの世界での残り時間をちらちらと見ながら加減をするようになる。これが老いるということなのかどうかわからないけれども、そんなわけで、僕は来年四捨五入すると60歳ってことになるわけなのだけれども、さてどうしたものかと思う。

 継続は力なりというけれども、握ったものを話さないと新しいものを得られないとも言う。そういう節目をぼちぼち迎えるんだなという予感は、もう少し前からあったのだけれども、僕はこの先、何を手に携えて歩いていくのだろうか。

 もしもあのとき、違う選択をしていたのならば……。

 そう思えるうちはまだ若いのだと思う。

 どんな選択でも、強いられたのではなく、自分でしたことなのであれば、今ある自分はそれらの結果なのだから、もしもを考えるよりも、今の自分を受け入れた上で、この先どういう選択をしていくのかを見据えるくらいにはなっているのかもしれない。

 なりたい自分にまだ足りないものがたくさんあって、この先出会うであろう、まだ出会っていない誰かに出会うことを楽しみにしている。イメージは固まってはいないのだけれども、少なくともこっちじゃないなという道に迷い込むことはなくなっていくのかもしれない。

 ここまでは許すけれども、ここから先は無理はしない。

 人とのつながりはそういうことでいいのだと思う。ひどく傷ついたり、傷つけてしまったり、そんなことを繰り返しながらも、僕はきっと人と関わることをやめない。

 優しくもなれるけれども、厳しくもなれる。良くも悪くも人は自分勝手に生きている。世界なしには僕は存在しえないし、僕が存在しなければ、また世界もないことと変わらない。

 僕の言葉は、まだまだ軽い。

 或いはもっともっと軽くなっていくのかもしれない。

 誰かを好きになったり、嫌になったり、そこに理由や意味を見出して言葉を紡いだところで、それは僕の勝手な言い訳なのだろうけれども、それでも言葉をこうして紡いでいくのには、この世を離れる瞬間までにはなんとか納得の行く答えを得てみたいものだ。

 僕も傷つく、あなたも傷つく。

 そうでなければ結局のところ、本当に人に優しくもできないし、自分を大切にすることもできない。怖いものは怖いし、嫌いなものは嫌い。だから楽しいことは楽しいし、好きなものは大切にしたいとわかるようになる。

 傷は消えない。
 でも癒すことはできる。

 だから僕は傷つくとわかっていても、或いは傷つけるとわかっていても、人と関わることをやめないだろう。

 どうでもいいだなんて思わない。そしてどうにかしようとも思わない。

 どうすべきか、どうしないべきか、常に考えながら、迷いながら、そして疑いながらも今信じられることをできるだけ打算なく選択していきたい。

 だからまた、電話もするし、会いもするし、メールもする。

 生きるということはそういうことだと思う。

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