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三度の飯よりごはんが好き

 いや、ただの言葉遊びなんですけど、ふっと頭によぎったこの世迷言はありそうでないのか、なさそうであるのか

 三度の飯に必ずしもお米が入っているとは限らないというのは屁理屈というものだが、しかし、たとえば「おいしいご飯の食べ方」を研究している人、料理人や栄養士がこの言葉を使うときになにか深みが出てくるということはないだろうか

 ある

 このように言葉と言うのは言葉そのものよりも誰が使うのかによってかなり印象が変わるものである。

 そのもっとも悲劇的なパターンはまじめに告白しているのに冗談にしか聞こえないようなタイプの人なのかと思いきや、逆に冗談めかして言っているにもかかわらず、全部本気に取られてしまうという人のほうが苦労が多いのかもしれない。

 このように言葉と言うのは表面の印象に引っ張られがちなのだが、とどのつまりは「スカートめくり」をして怒られたり、泣かれたり、ひっぱたかれたりする人と「きゃあ」とか「いやらしいんだからぁ」とか嫌悪を含まない言われ方をする人とのどうしようもない差異なのだと言えるのかも知れない。

 いや

 そもそもそこに至るまでのその人のあり方や当人同士の関係性こそがそれを決めるのだと考えるべき事案であって、「三度の飯よりご飯が好き」はありえるのかという問いに対して、本筋を逸脱した言いようだとほとんどの人がまゆをしかめるだろう。

 しかしながら、身近に散見するSNSのトラブルというものは、だいたい今示してみたように構造的には似ているのである。

 ちょっとした遊び心の「お題目」に対して、さまざまな角度から「面白おかしく」いじっているうちは他愛もない遊びであるのに、「スカートめくり」というワードからあらぬ方向に話を広げる輩が現れた瞬間にあちらこちらに火の粉が降りかかる。或いは火種をあちらこちらに運んで回ったりするのである。

 さて、最初の話に戻れば、これはただの言い間違えであって、「三度の飯より」のあとことがより大好きと言う構文であるにもかかわらず、どれだけご飯が好きかというたとえに「三度の飯より」を使ってしまった「うっかり」がことの始まりなのである。

 ふたを開けてみれば「ああ、そういうことあるよね」としかならないことを、後出しジャンケンのように「実際には何が起きたのか」を書くこと。

 すなわちそれが小説を書くことの本質なのかもしれない(いや、そんなこともないが、あながちないとも言い切れない)

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