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アンチテーゼ~会話なんて要らない

 会話ができても対話ができない関係って、案外多いのではないだろうか。

 人と話すことが好きと言い放つ人ほど、この傾向は高い。
 そもそも会話と対話と何が違うのか。

 乱暴に言えば会話は雑談、対話は談義の共有。
 談義とは、物事の道理を説き聞かせること。
 すなわち談義の共有とは、道理を相手に説き聞かせ、それについて議論を深めて、ある一定の結論とそれを実証するための課題を残すことであるのだと思う。

 そしてそうした対話は会話から始まる。会話はボクシングで言うところのジャブとステップであり、その『さぐり』から『テーマ』を見出す。ボクシングと違うところは、相手をノックアウトする必要はない。それは説教である。
 対話はテニスのラリーを楽しむのに似ているかもしれない。議論の結果としてどちらかに勝ち負けが決まることもあるが、それはノックアウトではなく、エンドを代えて攻守を交代することもまた対話の面白みである。

 ゆえに、対話に至らない『会話なんて要らない』と筆者は思う。

 逆に議論になって会話の雰囲気が壊れるのが嫌だと言う人も少なくないことも理解している。理解したうえでそれでも会話なんて要らないと提示するのは対話にもマナーがあり、間違った対話をすることは、楽しいからといって公園のど真ん中でテニスを始めるようなもので、それを是とはしないからだ。

 会話の中に対話があり、対話からまた会話が生まれる。これが望ましい。

 では会話はできて対話ができない、対話にならない会話をする人とはどんな傾向にあるのか。

 何でもかんでも薦める人。
 これは面白いから、これは楽しいから、これは儲かるから、これはかわいいから、これは効くからと薦める人なぜそれが良いものなのかを道理で説明ができない傾向がある。
 それに出会ったきっかけ、やってみた最初の感想、継続している理由、なぜそれが良いのかを自分なりの分析と、世間的な相対評価で説明し、なおかつ、合う合わないがあり、こういう人、こういう場所ではだめ、効果がないケースなどを具体的にあげられないお薦めは、その人にとって明日にはどうでもいいものになっている可能性がある。

 何でもかんでも聞いてくる人。
 それはどこで買ったの、どこで食べたの、どこで知り合ったの、どうやって調べたの、どうやって作ったのと何でもかんでも聞いてくる人は、質問がしたいだけで、それを活用する気はさらさらない傾向がある。

 同調しかしない人。
 そうなんだ、わかるぅ、あるよねぇ、などなど。これについては言うまでもないが、基本スルーするだけか、あるいは話の中身はどうでもよくてその人に気に入られたいだけ。

 疑問を抱かない人。疑問しか抱かない人。
 その会話において疑問を抱かないのは考えていない証拠、疑問しか抱かないのは否定することしか考えていない人。

 会話の間を取らない人、割り込みで別の話をぶち込む人
 一人語りが長く、相手が話す隙を作らず、話の終わりも自己完結してしまっていては取り付く島もない。話の腰を折らざるを得なくなるが、それもまた無作法でもある。

 話が長い人、短い人。
 整理されていない言葉の羅列は興味を削ぐし、朝起きてご飯食べて夜寝たみたいな話は、広げようもない。

 話の中身がポジティブだろうがネガティブだろうが、愚痴だろうがのろけだろうが、上記のポイントがある程度守られていれば会話から対話に発展することはある。

 話の中身など、実はどうでもよくて、話題をどう扱うかで対話はできる。要は相手の立場を理解し、ポジティブならネガティブ、愚痴には共感ではなく叱咤激励、のろけには苦笑いで返せばいい。つまりアンチテーゼを示せばそこから対話に持ち込むことは可能なのだと思う。

 そしてもっとも大事なこと。
 対話は能力であって、鍛えればある程度上達するが、能力であるが故に得て不得手がある。不得手な対話を無理にすることは誰にとっても不幸な結果 を招く。
 思うに、やたらと話しかけてくる人は対話が苦手である。対話が得意な人は、どんと構えて「話しかけても大丈夫という雰囲気」を持っているものだ。

 会話を楽しみ、対話を嗜むことがでいれば、人生は退屈がない。だからこそ、対話にならない会話は要らない。

 対話型AIが話題になっているが、会話型AIは果たして、必要とされるだろうか。


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