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アンチテーゼ~距離感なんていらない

 自分の容姿についてここであまり語ったことはないのだけれども、簡単に言うと太った禿のおっさんです。

 僕自身がそれについてコンプレックスを持っていないので、それを話題にすることもなかったのですが、それについてのエピソードがまるでないわけでもないので、いくつかお披露目しようと思います。
 これについては、コンプレックスの克服とかそんな話ではなく、どちらかというと人との距離感という話になります。

 行きつけのカラオケができる居酒屋があり、そこは仲のいい(もちろん喧嘩もよくするが)夫婦が切り盛りしています。おそらくその店が一番自分の素が出ているというか、この界隈で僕は「めけさん」と呼ばれています。ここ十年で知り合った人はほとんどそう呼んでくれていますが、この店だけは本名で呼ばれているというのも素でいられる要因なのかもしれません。

 そうなったのには理由があり、ここには僕のもと上司、前職の社長が常連であたり前に本名で呼ぶ(正確には本名を含めたあだ名)し、年配の人が多いので「めけめけ」というほうが覚えにくいというのもあるのかもしれません。

 この夫婦の間にはすでに孫がいて、娘さんがお店を手伝いに来ることもあり、当然にご夫婦からすれば孫と戯れるチャンスでもあるわけで、そのお孫さんはお店のアイドルでもあります。

 お母さん(夫婦の娘さん)におんぶされながらお店を手伝っている頃から知っているお客さんのほうが多く、常連さんからすれば、ある意味自分の孫のような感覚もあるのだと思います。

 そのお孫さんがお店を歩きまわっているときに、ふとお客の一人が「娘ちゃんとつむじの位置が同じだね」とお孫さんの頭と娘さんの頭を比べだしました。
 確かに同じだ。

 そこで自分のつむじがどこにあるのかみたいな話の流れになり、僕としてはここはオチで「僕のつむじはめちゃくちゃ大きいですよ」と禿を自虐ネタにしようと構えておりました。はい、恥ずかしながらかまないように、嫌みなく言えるように準備をしておりました。

 しかしそれは無駄なことでした。

「めけちゃん(実際は苗字で呼ばれている)のつむじはどこかなぁ?」とママがカウンターに座っている僕の頭を撫でます。はい、笑いを取られてしましました。

 人の身体の欠点を使って笑いにすることはとても失礼なこととされているし、僕もそれはナンセンスだと考えますが、それが許される人間関係、人との距離というのがあると思います。

 もちろんそれを不特定多数が目にするようなメディアでやるには十分なコンセンサスが必要でドリフターズでは高木ブーがデブ、荒井注がハゲというネタはPTAからは怒られても、世間的にはコンセンサスが取れていたと思います。

 もちろん単に人間関係が良好だからと言ってなんでも許されるわけではなく、これまで僕が自虐ネタとしてオチで使っているので「いじっても大丈夫ですよ」というサインを常々だしていたからこそ、その場にいた全員が笑ってくれたし、その場にほかに髪が薄いことで悩んでいるような人がいなかったからこそできた「笑い」です。

 僕はそのときに「自分で落としたかった」という口惜しさと、いじってくれてありがとうという感謝の気持ちが入交り、結果苦笑いになっていた自分を反省しております。

 また別の場面ではこんなことがありました。

 とある女性に恋愛相談を受けていたというか、いわゆる愚痴を聞いていた時のことです。彼女は男性の容姿にそれほど高いハードルはもっていないといいつつも「でも禿とデブとは付き合わない」と言ってのけました。

 僕は元来、ボケよりも突っ込みタイプなのでそこはきれいに突っ込みを入れて笑いに変えましたが、彼女はあわてて「めけさんはそういうんじゃないから」とフォローをしましたが、むしろそれは傷口に塩を塗るようなもので、つまり男性としてはみてないってことかと、そこは突っ込みはせずに自分の心のメモ帳に書き記すにとどめました。

 さて、この話の着地点ですが、その前にもう一つ大事な要素があります。それは僕の血筋について――つまり遺伝子と環境です。

 我が父も祖父も、実は僕とそっくりで、頭髪と体形はコピーのようなものです。そしてそれを気にしないということも同じで子どもの頃は父親の昔の写真と今を見比べて笑いものにしたものです。
 母はそんなとき「騙されたのよ。結婚したときはちゃんとあったのに」とオチをつけてくれました。そして僕もそれに習って、今のカミさんをだましました。

 また我が家では基本、親子の呼び方があだ名になります。パパちゃんと言われていたのは子供がまだ小さいころで、そこからパパの頭文字をとってP(ピー)と呼ばれたり、禿茶瓶のハゲをとって「ちゃびん」なんて呼ばれたりしております。今はおっさんです。

 それだけ聞くとまるで威厳はありませんが、それなり評価はちゃんと受けているし、ゆえにそこには敬意もちゃんとあります。そして家族なのだからなんでもありかと言えば、そこにはちゃんとボーダーラインもあります。

 人との距離感というのは、語って説明できるものとは違い、それぞれでもあるし、しかしその時代や環境によって変化をするということを踏まえればある程度、過去においては言語化が可能かと思います。

 しかしながら、それは生き物であり、気分であり、状況であり、その瞬間をとらえても、それが次の瞬間も正確に表せるかと言えば違うと思います。ゆえに僕がここで言いたかったこと。それは次のようなことになります。

 人との距離感は、測るものであって、取り計らうものではない。

 その時々で許されること、許されないことが変わるものです。だから常に意識するということで訓練するしかありません。それ面倒だから人付き合いをしたくないというのなら、それもまた距離の取り方で僕は否定はしません。

 しかしながら僕が望むのは、いつでも手が届きそうに見えて、実際にはつかむことのできない。

 夜空の星のようなものだ。

 という役には立たなくとも、できないことを悔やむ必要はないと思ってもらえればよかったかなと思います。

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