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おじちゃんは生きる

 おじちゃんは可愛い。昨日おばちゃんの話を書いたので、今日はおじちゃん。
 
 毎朝、喫茶店に陽気な感じで入ってくるおじさんがいる。小柄で、きれいな白髪で、着ている服から靴まですべて白い。肌も色白だ。名前を知らないので(当然だ)、心の中で白いおじちゃんと呼んでいる。
 
 喫茶店のカウンターにちょこんと座っているのがいつも愛らしい。ついでにマスターと政治の話なんかしながら煙草をくわえる横顔がまた味わい深い。たまに明るく笑う。酸いも甘いも知っている人が笑うさまは、赤ちゃんが笑うのとは別のよさがある。
 
 職場にもおじさんが多い。就職するまでは学生だったから、いきおい同世代がいる空間にしか慣れていない。しかもすべて共学に通っていたから、たいてい男女の数は半々だった。
 仕事に就いて初めて、年配の男性に囲まれ「おじさんてこんなに多様なのね~」と思う日々を送っている。同世代にだっていろんな人がいたんだから、当たり前と言えば当たり前。でも目の前で体験するのと、頭で理解しているのは全然違う。
 
 なにかいいことがあると「よっしー♡」とガッツポーズを取るおじさん。お菓子を配ると必ず「じゃ一番大きいのもらうわ」と、さっさと持って行くおじさん。逆に「私は最後でいいです」と遠慮するおじさん。
 
 デスクの近くでは「60歳から映画がシニア割になるんだよ。嬉しいような悲しいような」「55歳からは夫婦の旅割みたいなのがあるんですよね」「わたしなんかこのあいだ赤いちゃんちゃんこ着たんですよ。そんな歳ね~」。
 
 自分が地味に驚いたのは、そんな年齢の男性になってもなお、誰かに怒られるのが怖いらしいってことだった。いや誰だってそんなの嫌だろうけど、周囲のおじさんたちが「これじゃ(上から)怒られちゃう」みたいに言うたび「へえ……」って気分になる。
 
 なんていうか、歳を取るとそういう「怒られたら辛い」「褒められると嬉しい」みたいな単純な理屈から解放される気がしてた。年齢が上がると、よくも悪くも何も感じなくなっていくんじゃないかと。どうやらそうでもないらしい。
 
 そっかあ、人間生きている限り喜怒哀楽から逃れられないもんなんかな。仏さまのように解脱でもしない限り、一生怒ったり笑ったり泣いたり、ガッツポーズしたり焦ったりするんだろうか。
 
 今日は電車の中で哲学の本を読んでいて「生から脱出することの不可能性」という一文に突き当たった。生から脱出することの不可能性。そのままの意味だ。生きている限り、生きていることから逃れることはできない。
 
 人間は「自分」という存在にくくりつけられていて逃げられない。どんなに遠い場所まで逃げたとしても、自分がそこにいる限り、いつもその場所は「ここ」になってしまう。歳を取ろうが場所を変えようが、自分が自分であるという事実はいつも変わらない。
 
 「生きる」は日ごろ使うにはちょっと重たい語だから「生活する」と言い換えてもいい。どこに行っても日常はある。「生きる」と「生活する」はほとんど同じことで、生きている限り生活しないといけない。つまりそれは日々の繰り返しだ。
 
 ちゃんちゃんこ貰う歳になっても、辛いことは辛くて楽しいことは楽しいんだろうな。年齢が上がったから生きることに慣れるなんて、そんなに都合のいい話はないんだ。おじさんたちの姿を見ていてそう思う。
 
 生活に慣れることはできても、生きることに慣れることはできないのかもしれない。だとしたら、両者はほとんど同じどころか、かなり違う動詞で。
 
 ところでおじちゃんの一人はコロナにかかってしまった。生活するには生きていないといけない。生きて回復してくれることを祈りながら、『全体性と無限』を読んでいる。


本文中の引用はこちらから。エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』藤岡俊博訳、講談社、2020年、p.258.


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。