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木嶋佳苗とクレオパトラ

鳥はなぜ歌うのか?簡単に答えてしまうとすれば、ひとつにはオスの生存競争のためである。素っ気ない回答ではあるけれど、オス鳥たちにとっては死活問題であり、より美しくさえずる個体がより優位に立つ。歌がうまいとモテる。

美しくさえずるのが魅力になるのは、なにも鳥ばかりではない。絶世の美女と言われたクレオパトラも美声だった。甘い声の持ち主であり、大声で話すことはなく、また会話上手な女性だったとの記録が残っている。容姿のほうは「人目を惹くほどではなかった」と書かれているから、他にも美しい女性はいたのだろう。彼女を伝説にしたのは、美声と知性だったと言っていい。

美声を武器にした女性で、もう一人おもいつくのが木嶋佳苗である。平成日本における連続殺人鬼であり、数々の男性を虜にしたとして注目を浴びた。多くの人が報道を受けて「一体犯人はどんな美女なのか」と考えたのではないだろうか。しかし報道写真を見る限り、日本人女性の平均よりもずっとふくよかで、クレオパトラ同じく人目を惹くような美人ではない。

しかし彼女もまた声に恵まれた人だった。裁判を傍聴しに行った男性記者が「木嶋の声かわいくねえ?」と支持派に傾いた、という話まで残っている。また彼女の立ち居振る舞いは王家の人間のようで、裁判に立ち会った人間がお付きの人に見えたと言うから、この女性もまた美声と気品によってモテた人である。

人にとって声は、鳴き声の領域を出ないのだと思う。いい声で優しい言葉を囁かれると、内容はどうでもつい信じてしまうように。だからアジテーションをする人たちは、大きく声を張り上げ自信をみなぎらせながら自らの主張を述べる。できるだけリズムよく、大衆の耳に残るように喋る。内容が正しくなくても、それだけで人を動かせたりするからタチが悪い。

保坂和志『言葉の外へ』の中にもこんな文章があった。

人間の認識力というのはじつはかなり大雑把にできていて、対象を正しく記述した言葉よりも響きのいい言葉に魅力を感じてしまうようにできている。
これを全否定することはできない。言葉の響きはたぶん脳の駆動と関係しているからだ。つまり言葉は広く切り取ったときの音楽の一部ということで、響きのいい言葉や流れのいい言葉を読んでいるときに、脳は音楽を聴いているときのような状態にある、ということなのだろう。

流れるように響きよく、自信満々に話されたら、ちょっととんでもないようなことでも「そうかな」と思ってしまいそうだから怖い。言葉は音楽の域を出ない。ずっと前に知人とそんなことを話した。「言葉と音楽ってどっちが先だと思う?」「それは音楽だね」と二人で頷いた。人は声で奏でる、言葉で奏でる、内容が二の次になってしまいかねないのは、ほとんど本能だから仕方ない。

だから注意深くならないといけない、とも言える。甘く魅惑的な音で語る人の話が、どこまで本当なのか。自信満々に言い切る彼らの言うことは、どこまで根拠があるのか。あるいは、人目を惹く喋り方でなくても、根拠を揃えて真実を語ろうとする人を見極めること。「人は見た目によらない」と言うけれど、もっと言えば「人は声によらない」のである。美声の持ち主を信じ、殺された人からの教訓だ。

そういえば以前、タレントのショーンKが経歴詐称で話題になった。あの人も、落ち着いた声でそれっぽいことを喋る人だった。もし彼が仮に、甲高く耳障りな声をしていたら、詐称した学歴を世間に信じ込ませるのは難しかっただろう。そのあたりのことを、きっとよくわかっていたのだろう、ショーンKも木嶋佳苗も。そしてこの二人と並べるには格が高すぎるが、おそらくクレオパトラも。


引用:保坂和志『言葉の外へ』河出書房新社、2003年、96頁。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。