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やり過ぎる人がいること

フランスで最も有名な王妃、マリー・アントワネット。派手な浪費家として知られた彼女の豪奢っぷりは、本当はその優しさの発露だったと言われる。どういうことか。

宮廷には暗黙のルールがあり、王妃より華美な格好はできない。仮にアントワネットが質素な格好をしていれば、それだけ周囲の人々の服装の幅は狭まってしまう。彼女はそれを嫌った。みずから常軌を逸した華やかな格好をすることで「オシャレに制限は設けませんよ。皆さま、いくらでもファッションを楽しんでくださいね」のメッセージを発したのだった。

(もっともその配慮の妙が大衆に伝わることはなく、フランス革命は起こり、自分が言ったわけでもない「パンがなければお菓子を食べればいいのに」の台詞が一人歩きして処刑された。)

「やり過ぎる人がいる」は、表現の幅を広げる。いくら「自由に楽しんでいいですよ」と言われても、いきなりフリーダムにはなれない。周りの様子を見ながら「これくらいなら許されるかな?」「あれくらいまでならしてもいいらしい」と徐々に幅を調節するのが一般的だろう。そこに常軌を逸した人がいると、一気に「やってもいい」の振れ幅が広がる。それを見た人は「あれが許されるなら、自分のこれもいいだろう」と表現しやすくなる。これを「アントワネット効果」と呼ぶことにする。

表現のアントワネット効果は自分も感じたことがある。昔noteにナンセンス系の投稿を得意とする人がいて、フォローしてよく見ていた。ある日、その人がこんな記事を出した。

イベント告知!

  日時:7月16日、午後7時~2時間
  場所:お好きな場所
参加表明:特に必要ありません。
活動内容:おのおの好きなことをする。


奮ってご参加ください!

日時がリアルだったせいで最初、本物のイベントかと思った。読み終わって脱力した。なんて無意味なんだ……。勝手にナンセンスの王者扱いして申し訳ないのだけど、それ以来この投稿は「自分も何を書いても許されるだろう、無意味を気にせずリリースしよう」の原動力になっている。あと何もしていないときは「私はいまあのイベントに参加してるんだ」と思うようになった。

文化は裾野が広くないと、頂点も高くならない。天才が数人いるだけで文化は生まれず発展することもなくて、出来の悪いものや無意味なものも含めて数が出回り、「あそこまでやってもいいんだ」の相乗効果が起きてこそ、育まれていくものなのだろう。だから抜きん出て品がなかったり、官能的過ぎる表現も、それはそれで「ここまでやってもOKだよ、自由の幅はこんなに広い」と示す点で意味がある。

常識から外れているとか、単にお上品じゃないとかそんな理由で表現を規制すれば、それは裾野を狭めることになる。多くの人はそれを見て萎縮し、無難な表現に終始してしまうかもしれない。そうしたら創作するのも見るのもつまらなくなって、みんなが周囲をうかがいながら自主規制するのが普通になり、好きだった分野がゆるゆると自滅して……。

そんなのは嫌だから、たいていの表現は許容するべきだと思う。たとえ不愉快でも理解できなくても。それ自体は受け入れられなくても、アントワネット効果がそのジャンルを盛り上げてくれる可能性は十分にあるし、少なくとも裾野は広いままに留まる。一個の作品や投稿が持つ力を、侮ってはいけない。たった一回の規制が持つ力も。

表現から受ける影響は大きい。時々「日本の女性は創作物から『女らしく控えめであれ』とのメッセージを受け取っている!」と言う人がいるけれど、どうだろう。小さい頃の女主人公と言えば「ドクタースランプ、アラレちゃん」ウンチを持って走り回るハタ迷惑なロボットガールだった。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。