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受け身がダメみたいな風潮

 他人を前向きにしばく人がいる。「人は誰だって幸せになりたい、お前もそうだよな、なら頑張れ努力しろ行動しろ自分を変えるんだ俺の言うことを聞け」と。こういう物言いを聞いたときは、そっと離れることにしている。その場からも人からも。
 
 こういう人は、受け身なタイプがとにかく嫌いだ。黙って座っているだけの人だって本人はそれで幸せかもしれないのに、こういうのは絶対に認めない。行動の中にこそ人生があると信じ、他人にもそれを押し付ける。自分の信じる幸せしか認めない。
 
 「受け身じゃダメ」と彼らは言う。配偶者も仕事も成功も幸福も何もかも、欲しいなら努力と行動と試行回数とポジティブ思考でなんとかなるからなんとかしろと言う。それができない奴はクズだと遠回しに、あるいははっきり口に出す。
 
 時代の流れがそうなんだろうな、と思う。ときどき迷惑メールフォルダを開くと、圧力の高い似たような言葉がたくさん並んでいる。
「才能を生かして副業をしましょう、このままでは大変なことになります、あなたはそれでいいんですか」
「いますぐに挑戦しますか?それとも挑戦を諦めて、いまのままの冴えない人生を送るのでしょうか?」
 だいたい最後には「オレに金を払って教えを乞え」という内容が煽情的に書かれている。私はアフラックのCMを思い出す。お金は大事だよ~♪
 
 むやみに煽ったり、無駄に行動を急かしたり、脅すような圧力のポジティブ思考を強いてくる、そういう風潮が好きじゃない。どうして日々穏やかに淡々と暮らしていたらいけないんだろう?
 
 自分は基本、受け身だと言われる。それじゃダメだと思って積極的になろうとしたこともあるけど、続かなかった。向こうから来るものを受け止めるほうが性に合う。だいたい人生それでうまくいく。ずっとそうだった。
 
 学校の先生に勧められて受験した大学が肌に合ったから、大学院まで残った。いまの会社は、一番最初に採用を決めてくれたから入った。入って仕事をしていたら「新しい部署に行ってみない」と言われたからその通り部署を移った。何も後悔してない。
 
 ショートヘアが似合うと言われれば、長かった髪もばっさり切る。やってと言われたことはとりあえず試みる、たとえうまくできなくても。「自我がない」と言われそうだけど、余計な自我ほど邪魔なものもない。
 
 自我を持ち積極的に行動しそれが報われる人には、圧の高いポジティブ(行動しろ、さもなくば死を)も功を奏するかもしれない。自分はそうじゃない。受け身な人でもそれなりに幸せになれる社会が善だと信じている。
 
 ぼんやりしていても、言われた仕事しかできなくても、ガッツに満ち溢れていなくても。流されていても、強い自我でバリアを張っていなくても、それなりに幸福が手に入る社会。そういう穏やかさを夢見て、何が悪いだろう。
 
 もし私が神さまだったら、流されていても自動的にいい感じになれる世界をつくりたい。気炎を上げて突っ走らなくても、ポジティブでアグレッシブな人にしばかれなくても、穏やかに暮らせる世界。過激で煽情的な言葉が、いまよりも少ない社会。
 でも神さまじゃないから、こうやってささやかな抵抗をすることしかできない。
 
 「女性の社会進出は善」と信じる人が専業主婦をけなしているのは見たくない。自立してないように見えようが、専業主婦だって多様な生き方のうちのひとつだ。
 あまり元気のない人に「行動しろ積極的になれないからお前はダメなんだ」と発破をかけるのも好きじゃない。元気のないことはダメじゃない。ないならないなりにどうやって生きていくか、大事なのは考えることだ。
 
 煽らない、急かさない、脅さない。そういう穏やかな肯定を愛していたい。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。