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「殺人犯の、友達です」

 秋葉原の無差別殺傷事件の、犯人の友達。こういうプロフィールの人のインタビューを読んだ。殺人犯にも友達や家族がいるという、ごく当たり前の事実。

 当時の報道は、犯人をなにかとても気の毒な人のように報道していた。仕事が不安定で人間関係も希薄な人が、ネットの世界でも理解者を得られずに事件を起こしました、とマスコミは言っていたように思う。
 友達だというこの人によれば、そのイメージはちょっと違ったらしい。記事から一部を抜粋。

 加藤が事件を起こした2008年は、労働者派遣法の規制緩和により派遣社員が急増していた時期だ。会社都合でいきなり契約を解除される「派遣切り」が問題となり、「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」などの用語も生み出されていた。そのため、派遣労働の企業を渡り歩いていた加藤の事件に対し、格差社会が生み出した貧困労働者による犯罪として論じるメディアも多々あった。しかし、大友氏の印象はそれと違うようだ。
 
「僕の知ってる加藤くんは、どちらかというと中間管理職で弱い者いじめをしていたイメージのほうが大きいです。完全に見下している人に対して、そういう傾向が強かった」 

 弱い者いじめ。報道では完全に「社会にいじめられた人」と印象づけられていたから、やっぱり報道と事実ってちょっとずつ違うんだな、と思う。場合によっては「ちょっと」どころか大きく違うんだろう。
 記事を読む限り、治安の悪い会社で中間管理職をやるのは大変だったらしい。「パチンコで15万勝ったから、おれ今月出勤しないわ」とか言われ、そのつもりで日程を組めば今度は「20万負けたから仕事くれ」と言ってくる。
 自分がその立場だったら、うんざりして病んで仕事を辞めているかもしれない。
 
 だけどストレス過多だからと言って、誰もが通り魔になるわけじゃない。実際に殺人に至るには、仕事とは別の原因があっただろう。人を殺したいと思うような何か。
 
 社会が憎くて人が憎くて、手当たり次第殺してやりたいと思う気持ち、少しわかるかもしれない。自分も精神的に苦しかったときは、周囲の誰のことも好きになれなかった。むしろ怯えと憎しみの対象だった。
 誰も自分を見てくれない、こんな社会なら要らない。私が人を殺しても、それは私をそうさせた社会が悪い。少しも優しくない人々が悪い。自分を取るに足りない存在として扱ったことを、社会に他人に後悔させてやる。そういう気持ち。
 
 そういう乾いた気分でいるときには、本当にわずかな親切が身に染みた。前を歩く誰かがドアを支えてくれたとか、話しかけた店員に邪慳にされなかったとか、そのくらいのことで救われる。
 こういう小さな、口に出して言うほどでもない優しさに触れてなかったら、いまごろどうなっていたかわからない。自傷行為に走っていたか、あるいはその牙が他人に向いていたか。そのどちらもしないで済んでいるのは、それだけで幸福なことだ。
 
 記事の中で、この友人が「実際に事件は起こしてないけど、潜在的に殺人願望を持つ人はたぶんめちゃくちゃいるはずなんですよね」とコメントしていて、そうだろうなと思う。頭ではなく体感レベルで、いるだろうなと思う。
 
 いつだったかアメリカで銃乱射が起きたときも、犯人の「周りが楽しそうに生きてるときに、どうしてこの僕がこんな孤独なんだ」という声明文を読んで感じた。やっぱりこういう人はいる。実際やる人が珍しいだけだ。思っているだけでやらない人はもっといる。
 でもたいていの人は実行しないで済む。その境界線には、人の持つ小さな優しさがあるんじゃないか。席を譲ったり、ドアを支えたりする程度の。とくべつ優しくしなくても、最低限人として尊重するような何かが。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。