大きな仕組みは回り続ける。

ちょっとオシャレで回転が速い店の醸し出す「食べ終わったら早く帰れ」オーラが嫌だ。「嫌だ」というだけであって、それが悪いわけではない。さっさと客を回したい店側の思いもあろうし、ひょっとしたら次に並んでいる人がいるのかもしれない(いない場合も多々ある)。自分は居心地が悪いから、そういうところを使わないまでで、効率と時間が大事な人との相性はいいことだろう。

口で「早く帰れ」と言えない以上、お店側はいろいろな方法でそれをアピールしてくる。テーブルにある物をすべて下げるとか、冬なのに冷たい風を送って席を立たせるとか。あるいは、最初から椅子の座り心地を悪くして長居できないようにするところもある。そんな扱いを受けるくらいだったら、ファミレスのほうがずっといい。ドリンクバーを頼んで何時間いたところで(したことないけど)、露骨に追い立てられることはない。

時間と効率を重んじる店の、何がそんなに嫌なのか考えて、人を人扱いしていないのが嫌なのだと思い当たった。こちらがそこにいたいかどうかに関わらず「私たちはあなたに席を退いてほしい」と要求してきて、犬をけしかけて羊の群れを追い立てるように急かしてくる。そのせわしなさと、他人の持つリズムに対する尊重のなさが嫌いだ。

「マクドナルド化」という言葉があるらしい。わざと椅子を座りにくくして、長時間そこにいるのを暗に拒否するような、「効率的」な事象を表現するのに使われる。ファーストフード店はスピードが命だからね。このマクドナルド化はあちこちでずいぶん進んでいて、収束する気配がない。みんな追い立てられて、あっちに行け、こっちに行けと言われているように見える。

ドイツの哲学者ハイデガーは、こういう「どこに行っても追い立てられる。すべての物が役に立つように取り立てられている」状況を「ゲシュテル」と呼んだ。この言葉は、無機質で不気味な、大きなシステムを示す。誰もがその中に取り込まれていて、規則正しく回る歯車になり、なんのためにシステムを動かしているのか、もはや誰もわからないまま、大きな仕組みは回り続ける。

そんな感じ。

話を冒頭に戻すと、自分をただ「金だけ落としてさっさと帰ってくれる客」に仕立て上げようとする店は、ゲシュテルの歯車としてしか自分のことを見ていない。それが露骨にわかるのが嫌だ。そして、この「嫌だ」という感情を、私は大切にしたい。嫌なものは、同時に自分が何を好むかを教えてくれるから。

そういうわけで、今日も「いつもの」喫茶店に行ってきた。食べ終わってゆるゆる物書きをしていても、パスタの皿もコーヒーカップも下げられることなく、自分は帰り際、顔見知りの店の人に「美味しかったです」と言って帰ってきた。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。