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幸せそうな写真

 ごくありきたりなウェディングフォトが届く。ちょっと前に挙げた式の写真で、カメラマンに言われる通りポーズを取った写真が何枚も。神前式だったから、ふたりとも和装で納まっている。
 
 だれかのnoteで「むかしは友だちの結婚式の写真を見て『いいなあ』と思ったものだけど、最近はどれも似たようなものだと感じてしまう」とあった。こういう式の記念なんて、むしろありきたりでいいのだと思う。
 
 式の当日、カメラマンはお決まりのショットをいくつか撮りたいらしく、いくつものオーダーを出した。夫は「片足上げて、扇子をかかげてくださーい!」と、慣れないキャラ作りを強いられて苦戦していた。自分はといえば
 
「新婦さーん、新郎さんのほっぺにチューしてくださーい!」
「身長差で届かない」
 
と困惑しながらもどうにか終わらせた。結果、みんなが期待する幸せそうな写真ができてくる。おどけている新郎と、その頬にキスしている新婦。写真撮影が終わったあと、ふたりで「なんだったんだ、あれ」となった瞬間はもちろん撮られてない。
 
 それでいいのだと思う。あとから振り返って、ああなんかこのとき笑ってるね、って言えれば十分で、なんとなくハッピーな雰囲気ならそれでいい。結婚式の写真なのに「困惑して突っ立っている新婦」とか「近くを飛び上がったカラスにギョっとするお義父さん」を撮って残しても仕方ない。
 
 ありきたりだから、安心して見ていられる。こういうのは、どれも似たようなものだからいい。ほかにも、式の進行に合わせて撮られたたくさんの写真があり、おごそかだったり和やかだったりしながら「結婚式」というイメージを損ねずに撮られている。
 
 ここまでは想像通りだったけど、ひとつよかったことがある。カメラマンが、父と娘のツーショットを残してくれたことだ。
 
 父は写真を撮るのは好きだが、被写体になるのは嫌う。40代までは年齢不詳と言われ、だれといても部下にまちがえられるほど若々しかった父も、50の声を聞いたあたりからぐっとおじちゃんになった。
 
「顔がたるんで、白髪も増えちゃってね。だから俺の写真なんぞ見たくもない。鏡だってまじまじ見るのは嫌なのに」
 
 そう言う父を撮らせてもらえることはほとんどない。だから、めずらしく礼装に身を包んだ父親の写真が残ったのは、ウェディングフォトのくれた思わぬ幸運だった。
 
 カメラマンの指示も特になかったので、別段おどけてもいない。神社の境内に、かばんを持った礼服の父が立つ。横に自分がいる。悪くない一枚。ひょっとしたら結婚式は、家族を撮るとてもいいチャンスなのかもしれない。
 
 それから「幸せそうな写真」がどうやって作られるのか、体験するいい機会になる。傍から見れば単に「いいなあ楽しそうで」と思われる一枚も、きっと撮る人の努力でできあがっているのだ。
 
 手をつないで笑っているショットは「手をつないでカメラ見て笑ってくださーい」って言う人がいて撮れるもの。カメラマンは、ごくありふれた幸福を撮影できるようがんばっている。
 
 式の記憶は、いまのところほとんどない。終わってから寄った喫茶店は、あまり商売っ気のないところで、近所のおばちゃんたちが来て駄弁っていた。自分はあったかい柚子茶を飲んだ。味は覚えてない。
 
 父と母の結婚式の写真をおもいだす。ウェディングドレス姿の母と、着物姿の祖母と、白いスーツに身を包んだ父と。とりあえずはみんな笑っている。そのときにできた家庭がその後、どんな境遇を辿るかはだれも知らないし、知らないから笑っていられる。
 
 こういう写真は、ずっとあとになってから見返すことに価値があるのかもしれない。それならいまはまだ、何も感じなくてよくて笑っていられる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。