見出し画像

美しさの価値、芸術の価値

 「美しい」の内訳というのは、まったく人によってさまざまなのだけど。
 
 自分の場合それは、「俗世を離れている」ことと密接に結びついている。まるきり俗を感じさせないものは、「美しい」の──十分条件ではないけれど──必要条件を満たしている。
 
 夏目漱石の『草枕』にもそんな描写があったっけ……。

余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界(じんかい)を離れた心持ちになれる詩である。

夏目漱石『草枕』新潮社、平成17年、11頁。

 うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下(きくをとるとうりのもと)、悠然見南山(ゆうぜんとしてなんざんをみる)。それぎりの裏(うち)に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いている訳でもなければ、南山に親友が奉職しているわけでもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。

同上、12頁。


 自分の感性が夏目さんから影響を受けているというより、けっこうな数の日本人に共通の感覚なんじゃないかと勝手に思っている。損得利害を超越することの美しさ。俗な世間を離れていられる贅沢。
 
 学生の頃ジュンク堂で買った写真集に『季楽(きら)ドール ルーチェ』がある。人形の写真集だ。撮影を担当した写真家にも人形作家にも、特に興味はなかった。ただ、「なんかきれいだったから」買って帰った。
 
 そのときから今まで、どこにも売り飛ばされずに本棚にある。その一番の理由は、この中に納められたの何葉かの写真、キリストと名付けられた人形の姿が、あまりよかったので。
 
 写真家リウ・ミセキが撮った「キリスト」は、完全に忘我の表情をしている。撮り方によっては恍惚としているようにも見える。いずれにせよ、俗世の欠片もない。こういうのを自分は「美しい」と思う。
 
 被写体が人形だというのが、またいいのかもしれない。「どうです、私きれいでしょう」と言うような押しつけがましさがない。人間だと大抵の場合「撮られている」という意識が、どこかその被写体を良さを歪めてしまうものだけど、人形ならそれもない。
 
 好きな人物写真が少ない(ほぼない)のは、このへんに理由があるのかもしれない。人物写真が好きな人は、その人間味を愛しているのだろうが、人間味は俗と切っても切り離せない。
 
 世の中には、人を撮って「奇跡の一枚」と呼ばれるものがあったり、人間が写っているからこそのドラマが感じられる報道写真もある。それだっていいものなのだろうけど、やっぱりどこか「世間」と地続きで、ぜんぶ忘れた恍惚の境地に近づくことができない。
 

盧を結んで人境にあり
而も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問う何ぞ能く爾ると
心遠ければ地自ずから偏なり

陶淵明「飲酒」より

人里に住み処を構えているが
車馬がうるさく訪れることもない
なぜそんなことができるのかと訊かれても
心が世間から遠いと、どこでも辺鄙な場所になるってことだ

現代語訳:筆者


 どこか遠いところ。「遠い」とは、ふだんの生活のもろもろから離れていること。進路とか保険とか節約とか、マネープランとか転職サイトの広告とかSNSとか、そういう全部を放っておいてひとりになれる場所。
 
 それをいきなり実現するのは、詩人でない人間には難しくて、難しくても詩や写真がそれを──気持ちの上だけでも──可能にしてくれる。人里に住みながら、心だけ遠くどこかに飛んでいく。それができるのが芸術作品であり、引いては美しさだと思っていて。
 
 そういう意味では、ただただ光あふれるルノワールの絵画も、リウ・ミセキの撮った「キリスト」も好きな詩も、同じところにある。どこかに連れて行ってくれる、ただいまここにいるだけでも。それが自分にとっての美しさ、芸術作品の価値。

上のページに飛んで表紙写真にカーソルを合わせると、「キリスト」が登場する。一番好きな一枚ではないけど、件の人形はそういう顔をしている。



本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。