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通行人M

 自分が幸運だったこと。変なプライドに恵まれなかったのは、きっと幸運だった。
 
 土曜日の朝の電車は、勤め人らしき人もいるけれど「これからキャンプです」「旅行です」って雰囲気の人もいる。平日のサラリーマンばかりの光景と違って、あいまいな空気が流れている。
 
 いま働いている建築現場は、土曜の出勤もOKなのだ。だから自分は週末に出て、平日一日休みをもらう。周囲が遊びに繰り出す中、いつも通りの道を通う。道はいつもと同じなのに、そこにいる人たちが違うと空気も違う。それがなんだか、おもしろい。
 
 退勤したわたしと、これからどこに行こうってまだまだ遊ぶ気の男の子たちと、週末の家族連れが横断歩道ですれ違う。土曜日にはこういう空気がある。
 
 最初に現場に入ったときに「週のうち、いつを休みにするか自分で決めていいよ」と言われた。一番人の多い日に休み、一番少ない日に出勤することにした。そうしたら土曜日に出ることになった。
 
 人によっては「土日は絶対休ませてください。ていうか、週末に出勤とかありえない」と言う人もいる。それもいいと思う。ただ自分がそういう人間だったら、土曜のあの光景は見られなかったな、と思う。

 完全に周囲に合わせて決めた勤務体系だったけど、やってみると悪くない。自分の人生、だいたいこのノリでできている。
 
 いまの会社に入った経緯もわかりやすい。就活していたときにスカウトをもらって、そこからトントン拍子に試験をパスして入社した。面接のときに「出る現場によっては土日が出勤になりますが、いいですか」と聞かれた。仕事ってそういうものだと思っていたから、その通りに答えた。
 
 建築業界というのは、イメージだけで嫌がる人もいる。おしゃれな響きではない。自分も大学の同期に「建築の会社に入った」と言ったら「なぜそんな業界に……」と一瞬、絶句された。ああ、うん、あの、鬼とか出ないから大丈夫だよ。今日も定時で帰ってきてるし。
 
 もし自分が「友達に聞かれたら、おしゃれな業界を答えられないと嫌!建築業界なんてありえない」と言っているタイプだったら、就活は難航しただろう。そこは変なプライドがなくてよかった。おしゃれにこだわる人生も、それはそれで張り合いがあって楽しいだろうけど、自分はそこまで張り合えない。いまいる場所は、いつだって自分にふさわしい。
 
 先輩たちはみんな優しい。最初はワケがわからなかった現場の仕事も慣れてきた。慣れてくると視界が冴える。自分のした仕事がどう現場を支えていて、あるいは足を引っ張るのかが見えてくる。
 
 友達には、自分のしたいことにこだわるあまり、なかなか就職できずニートの子もいる。就職したものの「こんな仕事おれにはふさわしくない」と辞めたあと、転職に失敗している子もいる。そのこだわりを悪いとは思わない。最後にすべてを持って行くのは、そういう強い執着を持った人なのかもしれない。
 
 自分は良くも悪くもそうじゃなかった。だからこうやって職を持って生きていられる。服やカバンが欲しいという欲もあまりなくて、いつも似たような恰好でリュックサックを背負っている。カフェで撮った飲み物の写真を、アップするような場所もない。
 
 傍から見れば、なにがおもしろいのかわからないつまらない人生かもしれない。土曜日には、遊びに繰り出したような華やかな女の子たちともすれ違う。高校生くらいのころは、きれいにした女の子を見ると我が身と引き比べて辛くなったけど、最近そうでもない。
 
 華やかにしている子にはしている子なりの事情があって、わたしはこれでいいと思って生きていて、お互い街の中に通行人として溶けている。さすがに明日は日曜日なので、工事もお休み。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。