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言葉の重い軽い

言葉には重さがある。「アイデア」は軽いけど、「着想」と書くと重い。意味が同じだったり似ていたりしても、書き方ひとつで重量が違ってくる。

「重い」は、数字で表せる重みの意味もあるけど、根幹で示しているのは「負担が大きい」。だから例えば、聞く側の心理的負担が大きいのを「重い話」、責任がのしかかるのを「重い任務」と言う。

その逆が「軽い」、つまり負担が小さい。胃に負荷をかけないから「軽い食事」「軽食」と言うし、回復にそれほど力を要さないから「軽い病気」と表現される。重い軽いという言葉は、そこにかかるパワー量を示すのだ。

一般的に言って漢語は「重い」。そもそも漢字を知ってなければ読めないとか、意味がわかっても読み方がわからないとか、いろいろな心理的負担を強いてくる。だからライトな雰囲気を出したいときに、カタカナやひらがなが採用されるのも自然なことだ。

とはいえ、いたずらに軽くするのもどうなんだろう。「いじめ」の三文字はひらがなだ。見た目のフォルムだけなら「へのへのもへじ」を思わせる。なんなら少し可愛い。だけど実態はまるで違うだろう。物を盗んだり隠したり、誰かを閉じ込めたり、暴力を振るったり。それらはすべて「校内犯罪」とでも呼ばれたほうがいい。「いじめ」の言葉は軽すぎる。

あるいは「ブラック企業」の「ブラック」の部分。人によって意味の取り方がまちまちだ。「黒字って意味?じゃあいい会社だね」と言う人もいれば「労働者を違法レベルにこき使ってるってことでしょ」と正確に理解している人も。そう、本当の意味はシャレにならない。重い現象をカタカナでふわっと言い表すのはどうなんだろう。やっぱり「脱法過労企業」みたいに漢字にしたほうがいいんじゃないか。そうしたら誤解も少ない。

逆に、軽い現象をわざわざ重くする人もいる。「読みやすさ」でいいところを「可読性」と書く。「キーワード」ではなく「鍵語」と言う。それがふさわしい場面もあるのかもしれないが、少なくとも日常生活においては負担が大きい。つまり「重い」。

言葉には、その場に合った重さ軽さがある。単語の重量のTPO、時と場と関係性をわきまえて、使う言葉の重さを選べるといい。

書き言葉とは少し離れるけど、むかし知的障害を持つ知人と映画を見た時のこと。洋画だったので、吹き替えか字幕か選べた。そこで「できたら吹き替えがいいけど、わたし字幕でも頑張れば読めるよ。どっちがいい?」と聞かれ、一瞬フリーズした。「頑張れば読める」は「頑張らないと読めない」を意味する。

洋画を見るときは、字幕一択だと思っていた。声優によってはアテレコが不自然だし、子役の声が不自然に甲高くなる、あの現象も嫌いだった。だけど彼女にしてみれば、耳から話が聞こえてくるほうがずっといいのだ、何も頑張らなくたって、音は耳に入ってくるから……。

結局、吹き替え版を見たような気もするし、邦画に変えたような気もする。ジャニーズの山田涼介が出ていたから、たぶん後者だろう。昭和と現代を行ったり来たりする話で、彼女は見終わったあと「よくわからなかった」と言っていた。時間軸がめまぐるしく変わるのについていけなかったらしい。

負担が大きいことを「重い」と言い、小さい場合は「軽い」。普通の人がなんとも思わないでやることを頑張らないとできない人にとって、重力はそれだけ大きくなる。それは他人事じゃない。自分だって、他人が難なくこなしている行為に高い壁を感じることはある。

軽いばかりじゃつまらないし、重いだけでは苦しくなるし。その重量のバランスをうまく取れるのが、いい人生ってことになるんだろう。そんなの考えたこともなかった。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。