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【小説】詐欺師の娘たち-2

前回の記事はこちら。

 女たちの目をまっすぐに見るようになった。それ以来、体調が悪い。
 彼女たちの瞳の中にある、ベタベタして救いようのない黒くて重い何かが、父親に移り、それから繋いでいる手を伝って流れてくる。私に。美しく着飾り、自分にとって人生はなんてことないと明るく笑う表情の裏で、毎晩泣いているような何かが。それは一個の人格を持っていて、人の感情であるというよりは人に憑りつくような何か。
 父には私がいたけれど、私にもう片方の手を繋ぐ人はいない。手渡す先がないなら、降りてきたものは受け止めるしかない。それが小さな体に納まりきらないときは、溢れ出るより他にない。私は黒いものを感じるたびに吐いた。父はそのたびに半狂乱で心配した。
 瘦せこけたらどうするんだ?吐かないでくれ、ちゃんと食べるんだ。貴婦人みたいにしてやりたいんだよお前のことを。どうかお父さんを裏切らないでくれ。
 貴婦人はげっそり痩せていてはならない。可愛い娘はふっくらした愛らしい頬を誇ってこそ父の商売道具になる。そういうわけで私は幼いながら、外見にひどく気を遣うようになった。長い髪がうっとうしい時も、切りたいとは言わなかった。わずかでも「やんちゃ」に見えては貴婦人にならない。フランス帰りのやもめ男に相応しいのは、女らしい愛らしい子ども、ドレスにショートヘアなどありえない。ありえないことはありえない。だから髪は背中を覆うように垂れ下がる、それが当たり前だ。蒸れても暑くても手入れが難しくても、短く切るのは許されない。端がカビて黒くなった鏡は私の友人で、その前で一日に何度も髪を梳かした。お前は世界一の貴婦人だ。
 女性たちのワガママに付き合い、エスコートも完璧にこなす父は、その頃さわがれ始めた男女平等など微塵も信じなかった。

 時々、怖い夢を見るようになる。深い沼が自分を呑み込んで、視界がすべてドロドロして真っ黒になり、どこまでも沈んでいって底がない。息ができないのに助けを求めることもできずに、ゆっくり、でも確かに体が沈んでいく。果てのない水底に向かって永遠に。怖い、怖いと思っている間にも沈み続け、ようやく目が覚める。覚めたときに床が身体を支えてくれるのが、どんなに心強かったか。
 やっと戻ってきた。私は沈まない場所で今日を過ごせる。
 その底なし沼が、女たちから私へのプレゼントだった。時にはネックレスや指輪をくれる女もいたけれど、その人と繋がっている間しか身に着けることができない。繋がりを断った途端、父はそれらを売りさばいた。目に見える物は売ってしまえる。手元に残らない。でも私の手の平を伝って入り込んできた「それ」は、消えることのない贈り物だった。すべての女たちの分が自分の身に浸透し、父のいないときに私はやっぱり吐いた。

 神様にはクレームをつけた。
 あなたの言う通りに目を覗き込んだら、変なのが流れ込んで来て吐いちゃった。泣いても泣いても止まらない。
 空想の中でちゃんと返事が来る。
 それでも地獄に落ちたりはしないよ。あなたがしているのは決してよいことではないけれど、地獄に落ちたりしない。落ちることはできない。
 どうして?
 理由を尋ねる質問に返事が返ってくることは珍しかった。神様はさっきの台詞を繰り返した。地獄に落ちたりしない。

 夜見る夢は、だんだん現実味を帯びていった。ある日は、以前だました女の人が出てきた。髪を掻きむしっている、暗い部屋で。誰か愛して抱きしめてと慟哭する、その部屋には彼女の他に誰もいない。床には持ち物が散らばり、財布も放り投げられている。そこから父に、何十枚もの諭吉が渡ったであろう白い財布。白く、金色のロゴが入った趣味のいい財布。センスの良さは彼女を救ってはくれなかった。男をもたらしてもくれなかった。夢見ている間の体が沈み込むことはなくなったけど、私は泣きながら目覚めるようになり、父に文句を言われた。
 泣きはらした目をするな。お前は世界一の貴婦人なんだぞ。
 子どもというものは娘というものは、不幸そうにしていてはならない。哀れな容貌は人生の足枷だと私は学ぶ。

 また別の日には、怖くはなかったけれど意味のわからない夢を見た。当時、父と付き合っていた女が下半身に手を伸ばし、恍惚としている。目にうっすら涙を浮かべて。女は黒い短い髪に白いTシャツを着ていて、その髪の色は私よりも黒かった。黒と白のコントラストの中で、女は満足気な笑みをこぼす。
 そういえば、あたしの髪ってあの人ほど黒くないし、まっすぐでもないわ。
 珍しく少しも泣かないで起きてきた「娘」を横目で見やりながら父は言う。
 ……ああ、あの女はロシア人とも付き合いがあったからな。お前には、そっちの血が入っているかもしれないね。
 そう言う父の瞳は一瞬、凍てついた荒野のように荒んだが、すぐにその冷たい光も消えた。でもお前を育ててるのは「パパ」だよ、それで十分だろ?お前は本当に可愛いね。朝ご飯をしっかり食べなさい。パンを焼いてあるから。
 その頃には、なぜか部屋にトースターが置かれるようになった。私の毎朝の食事は、焼きたての一枚の食パン。ナイフもフォークも箸もいらない、手で食べられる。何も塗るものはなかったけれど、焼き目がついているだけで幸福だった。それまでは、白い冷たいパンしか知らなかったから。

 ロシア。
 それがどれくらい遠いどんな国なのか、誰も教えてくれない。ろ‐し‐あ。私にとってそれは三つの音でしかなかった。少なくとも、自分の髪が真っ黒じゃないのと少しは関係があるらしい。父がその国名を口にしたのは一回きりだった。
 靴を買い替えたのは、その少しあと。赤いのは傷が目立つようになり、また体の成長に伴って、サイズが合わなくなってきていた。
 やっぱりピンクがいいわ、パパ。真珠がついてるのがいいの。
 スーパーの靴売り場でそうせがむと、父は笑って肯定し、それから否定する。
 女らしいものが好きなんだね、お前は本当にいい子だ。でもなんにもついてないやつにしよう、いいだろ?涙に似てるからね、真珠は。世界一の貴婦人にアクセサリーはいらない、そのままで十分かわいいよ。
 それで私の足には、何も付いてないプレーンな、桜色のエナメルシューズがピタリと納まる。
 赤よりこっちのほうがいいわ。私は浮かれて何度もそう言った。父は苦笑しながら頭を撫でてくれる。確か季節は春で、入学式に臨む子どもたちのための商品が売り場にはずらりと並んでいた。だけどそのどれも、私には関係がなかった。

 空は突然、落ちてくる。父の仕事は好調だった。私のドレスだって本当なら、そろそろ新調できたはずだ。古い、染みのできた壁に掛けられた小さなプリンセスドレスは、背が伸びるに従ってウェストの位置が合わなくなり、脚が見える面積が広くなっていた。それでも私の体に貼り付いていたものの、それは貼り付いているに過ぎない。裕福な家庭なら、晴れ着をこんな風に放置したりしないだろう。父はその判断を誤った。そこから足がついたわけではないが、詐欺師が夢を装い切れなくなればそれが潮時。私と父の城は、ある日いきなり尋ねてきた男たちに囲まれて、消滅した。

 ルーマニア?ウクライナか?
 そう聞こえた気がする。警官らしい年配の男性の、狡猾さに満ちた声だった。娘がいると弁解する父の声、大家のおばあさんが部屋の扉の向こうからこっちを覗いている。
 う‐く‐ら‐い‐な。知ってる、と私は思った。首都のキエフにバレエ団がある。でもそれがどうしたんだろう?ルーマニア?る‐う‐ま‐に‐あ?聞いたことがない。
 私のピンクの靴は、まだ何回も履いてなかった。これで父とまた電車に乗るんだと思っていた。そのときも側にあったはずだ。汚しちゃいけないからと部屋の中に上げて、枕元に置いていた。イミテーションの真珠がない、プレーンなシューズ。きっとこれから買うドレスによく似合う、真新しい一足。促されて外に出るときに履いた、その靴だけが残った。
 それ以外はすべて私の人生から消える。父もドレスもトースターも部屋も、焼きたてのパンもロシアもフランスも、ルーマニアもウクライナもバレエのビデオも。父の姿が見えなくなり、私は立っているのにずっと沈んでいる気がした。全身の血が下へ下へ降りて行って、立っているのも難しくなり、この子は身寄りもいないので、という声を、うつむいた頭で聞く。
 血は繋がってないってよ、どっから拾って来たんだか、こりゃあ~孤児院だな。

  孤児院。その話はあまりしたくない。

(続)


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。