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その土地の桜になる

 お世話になっているマダムとその旦那さんから、結婚祝いが届いた。すでに電話や手紙で祝ってくださっていたけれど、遅れてごめんねというメッセージと共に地元の工芸品が送られてくる。
 
 秋田名物、樺細工(かばざいく)。桜の樹の皮をまとう木工品は、全国ここでしか作られない。頂いたのは、文机に置くような二段の引き出しだった。取り急ぎお礼の手紙を書き、実家にいる母にも「お返しどうするべ」と書いて送った。
 
 (母は、スマホも携帯も持たない。最近では固定電話に出ることも珍しくなったので、手紙でやり取りしている。)
 
 引き出しには、レターセットやはがきを入れることにした。値の張る家具はほとんどない部屋の中で、これだけが異彩を放っている。こういうものを頂くと、あれですね、「文化的に暮らすことを諦めるな」という強いメッセージを感じます。がんばろう。
 
 結婚式を挙げて数人の親戚からご祝儀をいただいたとき、お返しは食事券にしたのだった。彼らが住んでいる都市の中でも、きっての高級ホテルのディナー、もしくはランチのチケット。この対応がどれくらい適切なものかは知らない。
 
 いま思えば、工芸品もよかったな……。頭のすみに「なにかあったら地元の伝統工芸品を贈るのはいいな」という考えはあったのに、肝心なときに出てこなかった。うー、と思いながら、マダムからもらった引き出しにレターセットと切手をしまう。
 
 桜の皮というのは、その花の華やかで可憐なイメージとは裏腹に、重厚感に満ちている。ひとことで言うと渋い。桜というのは実は多面的で、淡くピンクなだけ……では全然ないのだった。
 
 むかし志村ふくみのエッセイでこんな話を読んだ。ある土地で小学生に向け、桜から布を染める授業をした。きれいな桜色を期待して色を染めたところ、できあがってきたのは淡くくもった黄色い布だった。子どもたちは期待外れの声を上げる。
 
 志村さんはとっさに「これがこの土地の桜の色です」と言った……。
 
 その土地によって育つ植物はちがう。同じ桜と呼ばれていても、花も中身も大きく違うことがある。エッセイがどんな風に続いたかは失念してしまったのだけど、このエピソードだけはずっと覚えている。
 
 これがこの土地の色。風土によって、育つ色には違いがあるということ。
 
 地元の秋田は、どう見てもキラキラしい地域ではない。実家のある土崎(つちざき)には、夏にあるそこそこ規模の大きい祭り以外、なにもない。おしゃれな店を探すのはむずかしく、冬には大量に降った雪の置き場所をめぐって近所の人たちと険悪な仲になる。
 
 でも自分はそこで育った。少なくとも、義務教育の期間は面倒を見てもらった土地だ。その風土の影響はきっと大きい。近くに広がっていた日本海は、自然は壮大だと感じるに十分だったし、切り立った山々は自然が決して優しい存在ではないことを伝える。
 
 都会で育った人ならなるほど、骨の髄まで明るくしゃれた色に染まっているのかもしれないけど、自分がそういう人間になることは生涯ないだろう。どこかには必ず、秋田の曇りの空と雪と、夜にはよく見える星空と、たまに出る鹿への奇妙な親近感が巣食っていて。
 
 友だちで、土崎よりももっと田舎に引っ越した子は「熊が出る」と手紙で書いてきた。「親子連れを遠くに見かけたからスタコラサッサ帰ってきたんだけど、子どもがいるのに攻撃してこなかったのは幸運って言われた」と続いている。それはよかったね……。
 
 つまりはそういう土地柄が、広い意味で自分を育てたのだ。とくべつ誇りにも思わないけど、田舎なのを恥とも思わない。それはたぶん、自分自身に対するスタンスとも似ている。そういうものだと思って生きていること。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。