リアリティ・トランサーフィンの考察㉔『目的の選別とスライド』
外的意図についてここまで考察してきました。以前のわたしはこの外的意図について、「わかったような🤔 わからないような🤔」という状態から脱却しそこねてしまい、トランサーフィンを生きた知見として自分の中にとりこむことに失敗しました。
当時のわたし自身の意識は理性(つまり自我=エゴ)と強く一体化していたため、なにごとにおいても優先されるべきなのは理性で、理性の決めたことに従って潜在意識(つまり魂)は仕事をするのだと考えていました。
しかし、いまでは個人の意識の全体像において理性というのはその表面のほんの薄い部分でしかないことを理解しています。そして、その観点から外的意図について捉え直してみると、人がなにかを意図するとき、その意図が目的とするものが人生においてなんらかの意味がある場合、先立って働いているのは潜在意識(魂)のほうであるということが言えます。
このとき、魂はあの手この手(サインやインスピレーション、シンクロニシティといったもの)を使って理性に働きかけて、あたかも理性自身がその目的を(願望という形で)見出したかのように仕向けます。このようにして理性がその目的を実現することを意図した場合、それは実現される可能性が高いといえるでしょう。
しかし、たとえばその目的が、普通に考えれば非常に達成困難であったり、あるいはそもそもどうすれば達成できるかも分からないようなものであった場合、理性はその目的の実現を意図してはいるものの、自らの意図にたいして否定的にとらえてしまいます。このように魂と理性が一致していないと、その目的は可能性があるにもかかわらず、現実化しません。
実際問題としては、これまでの記事で明らかにしたように願望には実現される見込みのないもの(その目的を魂が望んでいない)もあるわけなのですが、そういうものを差し引いたとしても、多くの人にはまだ願望は残っているはずです。そのなかには最初から魂と理性が一致しているものも含まれますが、これについては特に多くを説明する必要がありません。目的について魂が快(ワクワク)で、達成方法も見えていて、達成できると理性も肯定的になっているのなら、あとは達成のためにやる必要があることがもしあれば、それをやるだけです。
でも、そのような願望というのは、えてして本人にとってそれは願望ではなく単なる意図であることでしょう。もちろんそうでない場合もあるかもしれませんが、願望ではあったとしても、それは過剰ポテンシャルをほとんど持っていないはずです。いいかえれば、その願望には高い重要性を与えていないということになります。
願望というより純粋な意図に近い目的や、魂が望んでいない目的を除外すると、いよいよ残っているのは、魂は望んでいるけれども、理性が無理かもしれんと思っている目的だけですね。このタイプの目的こそ、実質的な意味での願望ということになるはずです。
くどいようですが、このタイプの目的においては魂と理性が一致していないので、このままでは外的意図は働きません。つまり、目的は現実化されません。そこで、どうすればよいでしょうか?
目的が現実化されるためには、外的意図を働かせなくてはいけません。そのためには魂と理性が一致しなくてはなりません。そしてここでは魂はそれを望んでいるわけです。となれば、やるべきことはひとつ。
それは理性をネガティブからポジティブに変えることです。
つまり、目的の達成について「無理とちゃうかな😟」と弱気になっている理性を「なんかいけそうな気がするわ🙂」と感じてくれるように説得すればよいわけですね。
さて、そもそもなぜ理性は「無理やろなあ」と感じてしまっているのでしょうか? 表向きの理由としては「だって、これめっちゃハードル高いやん」とか「どうやったらええのか分からへんし」といったところなのですが、そのように考えてしまうことそれ自体はごく自然なことです。
いっぽうで、目的の達成のハードルが非常に高かったとしても、「いや、でも大丈夫」と思えることもあるはずですね。これはどういうことかというと、ここではハードルが高いということは単なる事実で、そこに重要性は与えられていないのです。これがさっき説明した魂と理性が一致しているパターンですね。
逆にいうと、目的達成に対して理性がネガティブになってしまうのは、その達成方法について、それが難しいことそのものが原因なのではなくて、難しいということに過大な重要性を与えてしまっているからです。そして、そうなってしまうのは、そもそも目的そのものに重要性を与えすぎているからなんですね。このように、重要性の問題は人生のありとあらゆるところに現れてきます。というより、人生における問題のほとんどに重要性が関係していると言えます。
ともあれ、これでようやく、なにをすべきかが見えてきましたね。すなわち、意図の実現にたいしてポジティブになるように理性を説得するためにはまず最初に、その目的に与えてしまっている重要性を取り去るということです。
これについては第1巻についての記事で書いてきたこととまったく同じことがいえますので、こちらの記事などでおさらいしてください。
また、BLOG in SPIRE にこういう記事がありますので、こちらもお読みください。ここでは重要性についてもうすこし高い次元で解説していますが、ポイントは重要性とは「実際に重要かどうかではなく、単にそのことについてどれだけ考えたかで決まる」というところです。このことを踏まえていくと、トランサーフィンの理解はさらに深まると思います。
さて、理性をポジティブへと導くことに関して、ゼランドはもうひとつ別のアイディアを提供してくれています。これがスライドという技法なのですが、そもそもスライドという言葉でみなさんはなにをイメージされますか? わたし(1971年生まれ)くらいの年代の人なら、スライドといえばポジフィルムを映写機を通してスクリーンに投影すること、あるいはポジフィルムそのもののことだと知っているでしょう。でも若い世代の人たちにとっては、スライドといったらプレゼンテーションソフトで作った一枚一枚のシートのことを指していると思われます。
この二つは同じもので、パソコンとプロジェクターという機器がまだなかった時代にはアナログ的なやり方でプレゼンテーションをやっていたということです。パワーポイントのシートをスライドと呼ぶのは、昔の名残というわけなんですね。ちなみに、ポジフィルムという言葉は聞き慣れない人が多いと思いますが、こういうものです。
写真のフィルムには、陽画と陰画、つまりポジフィルムとネガフィルムという二つの種類が実はあるんです。そのうちより一般的なのはネガフィルムで、ネガフィルムはフィルム上では色が反転しています。これを印画紙(印画紙とは紙でできたフィルムです)にプリントする際に反転した色がさらに反転して、現実の色合いが紙のうえに再現されます。これが普通の写真の仕組みです。つまり、ネガフィルムとは紙に転写することを念頭に置いたフィルムです。
いっぽう、紙に印刷するのではなく、上に書いたようにスライドを作ったり映画を撮影するためには、色が反転していない、つまり撮影したものの見た目の色がそのまま写ってくれるフィルムが必要になります。これがポジフィルムです。ポジフィルムはリバーサルフィルムとも呼ばれています。
なぜわざわざこのような説明をしたかというと、それはゼランドが言っているスライドとは、このポジフィルムがモチーフになっているからでした。そのため、ポジフィルムやそれを使ったスライド上映のことを知らないとよく分からないと思ったので、ちょっと横道にそれました。それでは、ここまでの説明を踏まえたうえで、ゼランドのいうスライドとはどういうものなのか、ゼランド自身の説明を引用しながら見ていきましょう。
色眼鏡、という言葉がありますね。ただのサングラスのことを指す場合もありますが、普通は「世の中を色(偏見)のついた眼鏡でみている」という意味で使われています。スライドもそれとちょっと似ているものと考えてもらってよいでしょう。しかし、色眼鏡では偏見を通して世界をみているということだけしか言っていません。その色が濃かったりどぎつかったりすると、その人が観ている世界はかなり偏っているだろう、ということは想像できますが、それだけです。
それに対してスライドは、そこにその人の世界観や価値観、ものごとへの理解の仕方などが写っているというものです。当然ながら、その人に偏見があるなら、それも写りこんでいるはずですが、スライドに写っているのはそれだけではないということです。また、その人が持っているスライドはたったの一枚ではなく、一人の人間が数多くのスライドを所有しています。まあ、眼鏡好きの人は一人でたくさん眼鏡を持っていますけれどもね。
ここではスライドに写っている劣等感を例にとっていますが、ポイントになるのは太字の部分です。これは自分の中の劣等感を他者に投影しているということを示しているのですが、投影という心理学的なことを扱うだけであれば投影を投影とそのまま書くだけでよいわけですよね。先へ進むと分かってくるのですが、スライドは投影という現象を分かりやすく説明するとともに、それを逆手に取ることが目的のテクニックなのです。
「自分の容貌についてどう思っているか」がまずあって、そして「その思いに不安をいだいていないなら、歪曲は起こらない」とあります。これは容姿がどうであれ、それに重要性を与えていないなら、それについてのスライドは作られないという風にとらえることができます。
しかし、容姿に不安があるなら(=重要性を与えているなら)、それはスライドになって、周囲の世界へと投影されてしまいます。このことはこれまでのトランサーフィンの理論を理解していれば十分よく分かるものですね。
実際には、投影というものにはここに書かれているようなパターンだけではなく、もっと複雑で微妙なものまで存在しています。一つ言えるのは、霊性が向上すると、つまり意識レベルが上昇していくと、このような投影は鳴りを潜めていきます。なぜなら、すべてはひとつであることが段階的に理解されていくからです。すべてはひとつなら、自分も他者もおなじひとつであり、それは見かけ上のわたしの自我やあなたの自我という個別性は幻想であるということも意味しています。自我という個別性が幻想であるということは、自我にはなんの罪も責任もないということです。このような理解が最初ははっきりとではなくても、少しずつでも起こってくるなら、その程度に応じて投影はなくなっていきます。幻であるものをさらに投影することなどできませんからね。余談でした。
さきほどすこし触れたことを、ここでゼランドがさらに詳しく言ってくれています。そう、スライドとは重要性の働きのある一面をあらわしたものなのですね。しかし、だとすれば、スライドを用いてどうやって理性をうまく説得できるのでしょうか? もうすこしみてみましょう。
悪い予感はえてして現実化してしまうということについてはすでに説明してきましたが、これは願望ではありませんね。しかし、予感したできごと(結果として起きることなので、目的と同じ意味があります)が現実化するということについて魂と理性が一致してしまうため、そこに外的意図が働いて、現実化されてしまうということでした。
ここでネガ・スライドという言葉が登場します。これが写真やフィルムのことに詳しい人からすると逆にややこしいのですが、ここで使われているネガという言葉は「陰画」を指すネガではありません。これは単純に、ネガティブな内容のスライドというだけの意味です。ここらへんはゼランドの造語センスなので善し悪しはおいておきましょう。意味が正しく理解されれば問題はありませんからね。
ネガ・スライドに写っているものとしては、ここまでの説明では劣等感しか例として挙がっていませんが、スライドが投影であることから、自分自身についてのことか、自分自身に関係のあることについてのネガティブな思考や感情のことといえます。ゼランドは明確に説明していませんが、ネガ・スライドが外的意図によって現像される(=現実化する)のは、そのような自分についてのネガティブな思いはカルマと関係があるからだとわたしは思います。そもそも、わたしたちが生まれ持ってくるこの肉体それ自体がカルマのあらわれの一つなのです。
ですから、これも悪い予感と同様に、魂としてもそのような経験を望ましいとは思っていないけれども理性がネガティブになっている以上は、苦い経験をさせることも厭わないということでしょう。
さて、ここまではスライドのネガティブな側面、すなわちネガ・スライドについてみてきました。読んでいただいたとおりですが、ネガ・スライドは理性の説得に用いることはできませんね。それに使えるのが、ここでようやく登場したポジ・スライドというものです。さらに、カラーと書いてあることで、ネガ・スライドが実は白黒だったということもここで明らかになりましたね(わりとどうでもいい)😌 今回はこれで以上になります。
もうちょっとコンパクトにまとめたかったのですが、どうにも端折れるところがなく、おそらくこれまでの記事で一番長いものになってしまいましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました🙏
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