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質問箱への回答⑥「意識とは? (心と意識の違いについて)」

今朝は仕事中に自転車のタイヤがパンクして、結構家から遠い場所だったんですがまだ自転車屋さんが開いている時間ではなかったため、泣きながら押して帰りました。天気予報が外れて雨が降っていなかったのは幸いでしたけど、すごい疲れました。

さてまた質問箱にご質問をいただきました。毎回素晴らしい質問をいただいていますが、今回のご質問もとっても重要な内容だと思います。わたしは自分で色々な記事を書いていますが、実はこの質問箱への回答こそがわたしのメインコンテンツだと考えています。なぜなら、具体的な質問に答えること以上に、わたしが誰かのためにできる有益なことはないと思うからです。また、同時にこうしてその質疑をシェアさせてもらうことで、同様の質問を持っておられる方々の役にも立てることでしょう。

ですから、質問はつねに大歓迎です。今までのところ、いただいた質問にはほぼその日のうちに回答させてもらっていますが、質問をいただいた時間によっては翌日になることもあるかもしれません。どんな質問でも遠慮なくしてみてください。もちろん、知らないことは知らないし、分からないことは分からないと書くこともあるでしょうが、すくなくとも無回答になることはありませんよ。

さて、今回いただいたご質問は次のとおりです。

そして回答は以下になります。


ご質問ありがとうございます😉

今回の質問は、多くの探求者のみなさんが同様に「どうなんだろう?」と思っておられるのではないかと思いました。

ちなみにご質問の文章では「BLACKさん心を認識している意識」と書かれていますが、これは「BLACKさん心を認識している意識」の書き間違いであるかと推察いたしました。

つまり質問の意図としては「自分(質問者さん)が自分の心を認識しているこの意識と、BLACKという人間がBLACKという人間の心を認識しているその意識は、おなじものなのだろうか?」というものであると判断し、これについて回答したいと思いますが、実はこの質問には二通りに答えることができます。順を追ってご説明しましょう。

まず、真理に近い観点からみていきますね。わたしがよく引き合いに出しているラメッシ・バルセカールは自らの教えの核心として「存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである」と言っていました。意識とは存在している感覚のことであり、存在の基盤であり、そして存在そのもののことです。現代の科学でいうところの「量子場」というものが意識とほぼ同じものを指してもいます。

非二元論をはじめ、真理とはなにかを語っているあらゆる教えが言っていることは「すべてはひとつである」という一言に集約できますが、そのひとつのものこそが意識であるというのがラメッシの言っていることです。

これは比喩ですが、映画のフィルムに世界のすべてが写っていると思い浮かべてみてください。そこには人も動物も植物もモノも空気も太陽も月も星々も写っているのですが、実際にはただ一枚のフィルムですね。意識とはこの喩えにおけるフィルムのようなものであり、すべてが意識でできているとはこのような意味です。ですから、意識は分割することができない一つのものであり、あの意識とこの意識というものはありません。すなわち、わたしの意識とあなたの意識はおなじ一つのものであるのです。これがまず一つ目の回答ですが、これについてもうすこし見ていきましょう。

意識とは存在している感覚であると先に述べましたが、その感覚とは「気づいている感覚」のことです。つまり、意識は意識それ自体に気づいているという性質があるのですが、この性質がすべてのものを存在させている力の正体でもあります。

ところで存在するすべてであるところの意識のことを「全体性」と表現したり、あるいは「神」と呼んだりすることがあります。全体性は文字通り全体性なのでよいとして、神についていえばラメッシの言葉を「存在するすべては神であり、神は存在するすべてである」というように読み替えることが可能です。

さて、意識とは気づいている感覚のことだと言いましたが、そうすると神もまた気づいている感覚のことであると分かりますね。すなわち、この世界において真に「気づいている者」とは意識であり全体性であるところの神のみなのです。したがって、唯一の観察者である神が全体性である神それ自身を観察しているということになるのですが、このことを「観照」と言います。

ですから、例外なくすべての肉体精神機構における内面の観察者もまた神であり、神のみです。もっといえば、存在するすべてが神なのですから、思考しているのも、行為しているのも神だけです。仏陀が行為者はいないと言ったのも、アドヴァイタヴェーダーンタの賢者たちが自由意志を否定したのも、このことを指して言っているわけです。

ここからはすこし別の観点から見ていきますが、その前に「心とはなにか」についてまとめておきましょう。これはIn SPIREの記事に詳しく書いていますが、心とは肉体精神機構に備わった機能であり、五感と呼ばれる知覚器官から得られた情報を印象として受け止め、それに対して思考したり、感情を発生させたり、あるいはそれらすべてを記憶として保持したりする一種のプログラムのことです。心は単なるプログラムであり、それを駆動させて同時に観察(認識)しているのは意識です。ここでも意識をフィルムやスクリーンのようなものと捉え、そこに写っているコンテンツを心であると考えると分かりやすいでしょう。

これについては質問者さんは「自分の心を認識している意識」と書かれていますから、おおむねご理解されていることと思いますが、これを読まれる方のためにあえて説明させていただきました。

続けて見ていきましょう。

ここまでの話では誰の意識であれ、すべておなじ一つの神であるところの意識であるということでしたが、実は、これはあくまで意識の側からみたお話なのです。

一方で、認識されている側の「心」はそれが宿る肉体精神機構の意識レベルによって中身が変わっていきます。意識レベルが高まるほど思考はより統合的になり、識別力が養われていきます。また、神へとつながるチャネルに繋がっていくことで高次の思考や直感を受け取るようになっていきます。

低い意識レベルの領域では、心は自らが気づきの源であり、観察者であると思っています。そんなときでも意識はその光を心へと放ち続けていますが、心は曇っていてそれに気づいていません。高い意識レベルでは、心は意識からくる光を遮ることなく照らされていて、輝きを発しています。つまり、変わるのは意識ではなく、意識について考える心の方なのですね。

心と意識の区別に曖昧さがあると、意識レベルによって変化していく心の領域の一部を意識であると誤認してしまいます。質問文にある「心を認識している意識」という文言における「意識」は実は心のことなのですね。意識はただ観察している、あるいは気づいているだけであるということをしっかりと理解することがポイントです。

質問箱の文字数制限のため書けなかった説明をここに追記しました

わたしはあまり瞑想を勧めることがありませんが、今回のこのことについては瞑想しながら熟考してみるのがよいでしょう。回答はこれで以上になります。参考になりましたら幸いに思います。


読んでいただいてありがとうございました。やや高度な内容になりますが、関連する記事をリンクしておきますので、よかったらお読みください。

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