見出し画像

あの日屋久島の砂浜で

大学4年生、夏の終わり、同級生4人で屋久島に向かうことになった。M子は飛行機で鹿児島まで行くといい、A史とKEYと私は東京から鹿児島まで青春18切符を使って行くことにした。

青春18切符

普通列車と快速列車が1日乗り放題の切符。5枚セットで11500円。1日でどれだけ行けるだろう。23時台後半に横浜から東海道線を走る長距離列車に乗る。夜行列車『ムーンライトながら』大垣行き。自由席だ。横浜から普通切符で乗車して、日をまたいで最初の駅から青春18切符の1日目がカウント開始になる。そして小田原駅あたりで列車は指定席も自由席も区分がなくなって、空席をめぐり椅子取り争奪戦になる。あぶれた人は電車の通路で夜を明かすことになるのだが、通路の人びとが当たり前のようにごろんと横になり出すので、私たち3人もそれにならい通路で寝た。A史かKEYかの足がすぐそばにあったが寝られた。2001年のことだと思うけれど、比較的最近のようなできごとだと思うけれど、本当かな。今の日本では考えられないような気もするけれど、私の記憶、本当かな。電車は朝の5時台に大垣駅に到着し、別の列車に乗り換える。その日のうちになるべく西に行きたい。1日めの終点は北九州の小倉で、スーパー銭湯の設備があれこれ豪華だったので、風呂に入り、A史とKEYが風呂で知り合った地元のおじさまと食堂で一杯し、休憩室で睡眠をとった。2日めの九州縦断は思ったより難しく、時刻表は持っていたものの列車の接続にてこずった。2日目の夕方、飛行機で鹿児島にやってきたM子と鹿児島駅で合流し4人で公衆電話をかけまくりアポが取れたユースホステルに泊まった。3日目は朝からフェリーで屋久島に向かう。

屋久島

屋久島の森がどれだけ神秘的か、樹齢7000年と言われる縄文杉はもちろん、そこに至るまでに点在する樹齢1000年超の屋久杉たちもどれだけ神々しいか、自分たちが森に入った瞬間に霧雨に覆われたり、命のことを知っていそうな屋久杉に触れたときに泣きそうになるという感覚だとか、そのときその場で自分の内と外の境界線に生じる身体的にはごく小さいけれどとても大きなできごとたち、写真や映像や文章に閉じ込めきれない様々なものごとがそこにはあった。縄文杉を拝み下山して、その日は砂浜にあるキャンプなのか跡地なのか管理事務所もなくかろうじてトイレがあったような、地元の方に泊まっていいようなことを言われたおぼろげな記憶があるその場所で夜を明かす。白い軽トラで「銭湯に連れて行ってあげる」という地元のおじいさんの言葉に甘えることにした。その銭湯で、わたしたちは世界が変わる場面を見たのだった。番台のおやじさんと私たちを載せてくれた軽トラックのおじいさんが番台上に設置されたテレビをみながらざわざわしていた。湯から出てきた私たちも、ざわざわした。ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突っ込んだ映像が、番台のテレビに流れていた。

ほしの夜

夜は快晴だった。4人で砂浜に寝そべり見たこともない数の星を見ていた。A史が携帯を見て「証券取引所が止まってるらしい世界が止まってるらしい」と早口で言ったのを覚えている。当時はまだスマートフォンがこの世になくニュースはテキストの情報だったと思う。銭湯の映像が現実であることを、断片的な情報からわたしたちは実感していくのだがこの時点ではまだまだ十分ではなかった。日常から遠く離れた場所で、想像できない現実離れした事件をきちんと把握するまでには相当な時間がかかった。そしてその事件は現実として飲み込むには異質で、少しのときを経て翌年にひとりニューヨークを訪れることになる。あのショッキングな映像はなんだったのだろうと、ずっと腑に落ちなかった。現場がもう更地になっていた頃だった。人びとの写真が飾られ、花もたくさんたむけらていた。場所自体が深く様々な感情に包まれていてた。でも街にはあたりまえだけれど日常があって、時を経てその場に行ってもとうてい私などには腑に落ちることができないことがわかったのだが、紛れもなく現実の爪痕がそこにはあった。

その年の春にわたしは社会人になっていた。バラバラになりはじめた社会のなかで、同じ方向を目指す会社組織というものに自ら望むかたちで組み込まれた。社会というものを把握するために自分には必要なステップだったのかもしれない。突然ニューヨークに行くと休みをとった新卒を見る白い目があったのを、感じた。心がちぐはぐなまま社会に踏み出した地に足の着かない感覚を、いまだに覚えている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?