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④現象学を更に深く理解するために~『知覚の現象学』 序文~

Merleau-Ponty,M.1945 竹内芳郎・小木貞孝(訳) 1967 知覚の現象学Ⅰ.みすず書房


今日のインテリ・レオンは③の続きで、上記の名著を抜粋したり考察している部分です。

院生時代のレジュメから引いてきてるので、断片的な記載となりますが、ご容赦下さい!


これまでの投稿は上記マガジンに記載してますー

それでは、今日もいきまーす


まず、現象学について、

「われわれはわれわれ自身のなかにこそ、現象学の統一性とその真の意味を見いだすであろう。問題はいくつも引用文献を数え立てることではなくて、むしろわれわれにとっての現象学を定着し客観化することであって、そういうものであればこそ、多くのわれわれの同時代人たちがフッサールやハイデガーを読んだ際、或る新しい哲学に出会ったというよりは自分たちが待望していたものをそこに認めた、という印象を持ったのである。現象学とは、ただ現象学的方法によってのみ近づき得るものだ。」

と述べている。また科学批判の文脈において、

「私は自分のことを世界の一部だとか、生物学・心理学・社会学の単なる対象だとかとは考えるわけにはゆかないし、自分を科学の領域の内側に閉じこめてしまうわけにもゆかない。私が世界について知っている一切のことは、たとえそれが科学によって知られたものであっても、まず私の視界から、つまり世界経験(experience du monde)から出発して私はそれを知るのであって、この世界経験がなければ、科学の使う諸記号もすっかり意味を喪くしてしまうだろう。科学の全領域は生きられた世界のうえに構成されているものであるから、もしもわれわれが科学自体を厳密に考えて、その意味と有効範囲を正確に評価しようと思うならば、われわれはまず何よりもこの世界経験を呼び起こさねばならないのであって、科学とはこの世界経験の二次的な表現でしかないのである。科学は知覚された世界と同一の存在意義をもってはいないし、また今後もけっしてもつことはないであろう。その理由は簡単であって、科学は知覚された世界についての一つの規定または説明でしかないからだ。」

として、私の世界経験が、科学が問題にする「知覚された世界」以前に存在する根底的なものであると語っている。まさしく、


「人間はいつも世界内に在り(世界にぞくしており)、世界のなかでこそ人間は己を知るのである」


ということであろう。そうしたことをもとに、真理について語っているのが以下である。


「われわれはほんとうに世界を知覚しているかどうかは問題にすべきではなくて、むしろ逆に、世界とはわれわれの知覚している当のものである、と言うべきである。もっと一般的に言えば、われわれのもっている明証性ははたして真理であるかどうかだとか、あるいはまた、われわれにとって明証的であることも、われわれの精神の或る欠陥によって何か真理それ自体といったものにたいしては錯覚ではないだろうかとか-そんなことを問題にすべきではない。
なぜなら、われわれが錯覚について語るからには、われわれはあらかじめすでに錯覚を錯覚として認めていたはずだからであって、また、われわれがそうすることができたのは、ただ、そのおなじ瞬間に真なるものと証明されるような何らかの知覚の名においてのみであり、したがって、懐疑とか誤謬を犯す懸念とかは、同時に誤謬を誤謬として暴露する我々の能力の存在を確言するもので、だからわれわれを根本的に真理からひき離してしまうものではあり得ないわけだろう。
われわれは(はじめからすでに)真理のなかに居るのであり、(われわれのもつ)明証性がそのまま〈真理体験〉なのだ。知覚の本質を求めるとは、知覚というものはあたまから真なるものと前提されるようなものではなく、ただわれわれにとって真理への接近として定義づけられるものだと、こう宣言することである。」

 つまり、人間はいつも世界内に(現象学的身体によって)在り、それによって世界のなかで己を知る存在であると同時に、本源的にはじめから既に真理のなかに居る存在である、ということではないだろうか。


 そうした真理のなかにある存在でありながら、我々は様々な臆見(ドグサ)によって真理から遠ざかっている。そうした真理世界の領域(現象野)に可能な限り迫るためには、反省(エポケー)をすることで現象学的還元をおこなってゆかなければならない。しかしこの現象学的還元によって、客観的に存在する事物の客観的同定は可能である反面、他者理解に関してはその全き真理に到達しうることはできないという結論に達してもいる。


 この結論は、人間理解・他者の内面生活の了解という問題を考える際、(行動主義など他の方法論に比して)現象学的還元による他者理解の方法論の脆弱性を露呈するものであるというよりはむしろ、もっとも謙虚でもっともその実態に即した結論であると言えるのではないだろうか。そして、その不可能性を前提としたうえで他者の内面生活の了解を保留し、丁寧に吟味し再構成していくなかで到達することが可能になるのは、現象野に限りなく近い、納得性・明証性の高い遍事象的真理なのである。



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