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Prologue

私は宇宙を求めて旅をしていた。
それは一体、何年前からなのだろう。

気づけばこの体は浮遊し、陸地や海は遠ざかり、大気圏すら突破して、青も黒もない世界に漂っている。

ああ、あの青い星はもう眼にも止まらない。
我が母星は、私がいたことさえ忘れているだろう。

脳や目が微睡む。寝たら死ぬと体が言う。
それでも視界と思考は、ゆるやかに閉じていく。

手足は冷え切り、酸素も心許ない。
呼吸は苦しい。心臓はどんどん衰える。

嗚呼、このまま未知の闇に抱かれて逝くのかと、私が全てを手放し諦めた時だ。




「Good night,my astronaut!
 (おはよう、私の宇宙飛行士さん!)」





鮮やかな声が聞こえる。
体が何かに掴まれる。
それは、5本指の小さな両手。

私のヘルメットを無遠慮にノックする音が聞こえる。
……音など、聞こえるはずがない空間なのに?

釣られて目を開けば、手が見える。

そこでは、黒髪をふたつ結きにした少女がにっこりと微笑んでいた。

彼女は地球の女子のように軽やかなスカートに身を包み、ジャケットを羽織っている。
宇宙服など無縁な軽装は、まるで日常で当たり前のようにおしゃれを楽しむ女子そのものだ。

そんな彼女の真っ黒の目は光を宿さず、瞳孔の動きがこちらに合うことはない。
そんな彼女は爛々とした声でこう続ける。

「ねえ、宇宙飛行士さん。ここまでよく来てくれたわ! 私はね、ノヴァ・タラッタ。新月の娘なの」

口が無い私を知ってか知らずか、臆するという言葉を知らなさそうな彼女は永遠と話し続ける。

「見て、この紙飛行機。これは青い星から託された人の願いよ」

「この一通にあったの。『眠りそうな宇宙飛行士を覚ましてください』って」

「だから私、探したのよ? 貴方のこと」

周囲を飛び回る紙飛行機を一通、愛おしそうに撫でキスをする。
その白い塊はまるで感情を持つようにーーあるいは恋人にされたように喜んでーー飛び跳ね、旋回ルートを離脱して数周空をひとりで回る。

それでも正気を取り戻すように、すぐに軌道を戻した紙飛行機を見て、彼女は笑った。

「せっかくの出会いを数冊の本で、ちょっとずつじゃね。物足りないのよ。数冊でこの宇宙は語りきれないし、何よりもっともっと知ってもらいたい」

「ああ、宇宙飛行士さん! あなたの話はまた始まるわ。『Good morning(おやすみなさい)』なんて眠らせるのはまだ早いの」

「あなたをいろんなところに連れ出してあげる。いろんな星の話を聞かせてあげる!」

だからね、と彼女は小首をかしげてこう笑う。

「あなたの通信機、ジャックしてもいいかしら?」





……メーデー、メーデー、メーデー。
我が母星、聞こえていますか。

これは救難信号ではありません。
これは、どこかの誰かの悪戯信号。

水曜、あるいは木曜。
夜がやってくるほんの少し前。
私の通信機を勝手に使って、誰かが出している信号です。

彼ら、彼女らはこう言っていました。
指先を振るって、カップとソーサーを取り出して。

青い星の、アース・キリアの住人さん。
あたたかな、あるいはひややかな。
お好きなドリンク一杯と、あなたの好きなお菓子を持って受信してください。
そしてやってくる夜空を見上げて、息を一回吸って、吐く。
その吐息は、確かにこちらへ届くでしょう。


これはクルックス・パーセク。
青い星から観測する宙でも地上でも無い、不安定なもうひとつの宙で輝く子らの話。

南天で数多の航海士の道標となった、かの十字架のように、偽り間違われたとしても輝き続ける星々の話。

私は宇宙を求めて旅をした。
これを受信する貴方も、きっと同じなのだろう。



「……メーデー、メーデー、メーデー。聞こえていますか? どうぞ」

「お返事の吐息を確認! ちゃんと届いているみたいね」

「ねえ、これを受信している貴方。聞いてもいい?」

「求めるとこまで、あと何パーセク?」


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