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ラオスに着く。

ラオスに着く

私が、旅をしていた1995年~2005年ごろ、
世界のバックパッカーに
「ラオスに行きたい」というと、
妙に、意を得たような顔でうなずかれたものだった。

その理由は、麻薬だ。
ラオスとベトナムとミャンマーとタイ、中国の雲南省が繋がるあたり、
要はその辺の山岳地帯はイロンナモノが栽培されていた……ようだ。

ようだというのは、正統派バックパッカーだった私は、
なんと、主な資料がナショナルジオグラフィック、
ときどき地球の歩き方とロンリープラネット、
という変わり種だったので、
バックパッカーたちのくれる補足情報に疎かったので
あとから雑誌や書籍によって情報を手に入れたからである。



長い前置きになるが
ミレニアムを超えたばかりのあるとき、
私はラオスに降り立った。

断っておくが、
大麻とか麻薬のことなんて
これっぽっちも念頭になかった。
だって、その存在を知らなかったのだから。

さて、話は飛行場に戻る。
念願のラオスである。
タイからラオスを目指したという時に書いたが、
何年も、ラオスに行ってみたかった。
タイに似た湿気の多い気候も、人の気取らない感じも、
すぐ大好きになった。

飛行場からタクシーで街に出る。
手慣れた旅人らしく、
空港でリュックを背負った若者に声をかけ、タクシー代をシェアした。
安宿の並ぶ通りに降り立ち
宿を定めた。

次は、観光である。
通りをぶらぶら歩きながら、交通手段を検討する。
決めた。
近くの自転車屋にて、スクーターというか日本の誇るスーパーカブを借りた。
「一応、予備のガソリンもください」
というと、
コーラが入っていたと思しき流線形のペットボトルに、毒々しい色の液体をいっぱい入れてくれた。
「ガソリン入れるところは、ここだから」とキャップを指さされ、告知事項完了。
これにて、レンタル手続き終了。
車両確認とか、免許確認とか、ややこしいことは一切なし。
風を切って走り出した。
最初は楽しかったが、すぐに目が痛くなった。
舗装された道ばかりではないため、思いのほか砂利が目に飛び込んでくる。
バイクを道端に止め、露店にてサングラスを購入。なんとなく、周辺の若い男性たち数人と目が合う。もしかしてこの国では、
こんな風に女一人で二輪車でバウバウ進んでたら行けないのかな、と思い、顔を伏せてなるべく小さくなって店を出た。
当時のビエンチャンはとても小さな町だったので、だいたい目抜き通りの位置を把握していれば、迷う心配はなさそうだった。
ナップザックに地図も入っているし。
ということで、少し街の外に足を延ばしてみることにした。
少ししたら異変に気が付いた。
どうも、私の周辺をバイクが取り囲んでいる。バイクの多い国(アジアの国はだいたいそう)だからかな、と思ったけれど、少し様子がおかしい。
ずっと同じ集団が、私の後ろをつかず離れずついている。私がスピードをあげれば向こうも上げるし、下げれば向こうも下げる。
総勢五台くらい。
追いかけられている! スピードをあげてまいてやりたかったが、知らない道だったので、しばらく走りながら様子をみることにした。
もしかしたら方向が一緒なだけかもしれないし。
少し走ったが、五台は私から離れる気配はなく、道を行く人もバイクも減ってきてしまった。
このまま、なにもないところで捕まっては大変、と思い、道端に屋台が数件固まっているところで、バイクを止めた。
五台も、私の後ろに続々と駐車した。
中の一人が、こちらに寄ってきた。あとの四人はそれを眺めている。
思いのほか、みんな若い。そして、なんだかきちんとしている。
歩み寄ってきた男性が、すっと手を差し出した。
「落としましたよ」それは、私のお気に入りのハンカチだった。
たしか上野の美術館で買ったもので、鮮やかな色彩が気に入っていた。
どうやら、露店でサングラスを買ったときに、落としたらしい。
覚えたばかりのラオス語と、英語でお礼を言った。

屋台でなにか飲み物でもおごらせてほしい、と言ったら、なんと反対にコーラをおごってくれた。
そこから、彼らと仲良くなった。
五人は大学生とのことだった。授業が終わって、街にでかけてたら外国人の女の子がいて、なにかを落とした。
その子は韓国人か日本人っぽかったけど、なぜか一人でバイクに乗ってブンブン走っていたので、好奇心もあって追いかけてみた。
ということだった。
大学は、同じところなの? という東京の馬鹿者の質問には、笑って答えてくれた。
ラオスには大学は一つしかないよ。ラオス国立大学だけ」
つまるところ、日本に東大か京大しかないようなものらしい。大学にくるのは、よほど勉強が好きでかつ得意な子たちばかり、ということだった。
全員の将来の予定を聞いてみた。
外資系企業に入って金を稼ぐ、なんていう奴は一人もおらず、皆、外務省やナントカ省など(ちょっとわからなかった)国の機関にて国をよくするために働きたい、と言っていた。そのとき、私は日本で泥の中を這いつくばるように仕事をしていたのだが、国をよくしたいとかほかの人が暮らしやすい環境を作りたいということなど考えたこともなく、自分の世界の浅さに驚いた。

翌日も会おうね、と話をしてその日は別れた。

ありがとうございます。毎日流れる日々の中から、皆さんを元気にできるような記憶を選んで書きつづれたらと思っています。ペンで笑顔を創る がモットーです。