「他人の目」は「ジャッジの目」

“他人の目”が気になるって人多いわよね。
あたしもそう。

あたしの場合は、その他人の目の何が気になるかっていうと「ジャッジされてるような気がする」「審査・評価されてるような気がする」のが怖い。

あの人から見ると合ってるけど、あっちの人から見たら間違ってる…って、全方位の人のジャッジの目が自分に向いてる気がして怖いの。
自分が何かを話していれば、目はこっちに向いてなくても耳がコチラに向けられてる気がして怖い。

他人の目が怖いって感覚がある人でこういう人って割といるんじゃないかしら。

自意識過剰っていう人もいるのかもしれないけど、その言葉はなんかしっくりこないのよね。
言いたいことも意味もわかるんだけど、なんか違う。だって、単に無意味な視線が集まってる気がするとか、他人の興味をひいてしまうなんてこれっぽっちも思ってないから。

常にジャッジされていて間違えたら、「なんでそうしたか知らないけど、それちがうよ」なんて言われるかもしれないとか、実際にそう言われた経験があるとか。
「他の人はどうか知らないけど、私は違うと思った」とか言われたりね。そういう経験から怖くなっちゃうの。
でも、合っていたらなにも言われない。だから、え?正解?これ正解?って考えてそれで疲れる。
間違った時だけBB弾を打たれるみたいな感じ。BB弾を受けて痛い!となって初めて「間違えた」とわかるみたいな感覚。

でも、わかってるんだ〜
これはあたしの認知の歪みだって。注意を受けたって攻撃されてるわけじゃないし、私に合わせた優しさや態度で訂正・修正をしないといけないルールなんてない。ていうか、それはそれで注意する側も疲れるし、気を遣われすぎて申し訳ない気持ちになる。

「注意されないようなレベルであるべき!」
「BB弾を打たれたくない!」とか、そういう感情が“他人のジャッジ”と“ジャッジされる自分”の言動を意識して、勝手に「他人の目」を気にすることになるんだよね。

「要するには自分に自信がない」ってことなんだけど、その答えに行く前に、その時々の感情をちゃんと咀嚼したい。じゃないと、乱雑な答えになって、また自分を卑下してしまうからね。

今日もジャッジされたね、お疲れ様。
明日もジャッジされるけど、あの人がしたジャッジが正しいとは限らない。
ジャッジされた内容を鵜呑みにしないで、本当に正しいジャッジなのかを考えるために、受け取りを保留にすることができたらいいね。

ほーんとお疲れ様、あたし。

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