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男子100mブーケラン

花束を持って街を走りたい。

時間帯は夜がいい。ショーウィンドウの光や街路灯に照らされて駆けるのが様になりそうだからだ。

服装はやっぱり黒のスーツか礼服が望ましい。本来激しい動きをするように作られていない服で、あえて全力疾走している所にドラマ性を感じる。諸々をかなぐり捨てて目の前のことに真剣に挑んでいる人間の格好良さとでもいうのだろうか。

当然、花束の形にもこだわりたい。花キューピットによると花束の形は大きく分けて2つ。どの方向から見ても同じように花が見える「オールラウンド」と、正面・背面の区別がある「ワンサイド」だ。オールラウンドは茎が短めで全体的にまるっこい印象、ワンサイドは長めのデザインが多い。

花束を抱えて街を走ることの最大の効果はドラマチックさの演出なのだけれど、一方でそれが一番のネックでもある。道行く人たちに「ドラマのようなことをやろうとしている」と思われているのではという不安がつきまとう。不安に思ってしまったら自信満々に走り抜けることなんて出来ない。

従ってこれをやる時には「致し方ない感じ」を出すことが必要だと考える。

例えば、時計をチラチラ見ながら走るのはどうだろう。赤信号に引っかかっている時はその場で足踏みをする。時刻が23時30分を過ぎていれば尚良い。今日が何らかの記念日で、日付が変わらないうちに花を届けようとするロマンチックな姿に見えるに違いない。

手元に電話があれば架けているふりをしながら、というのもありだ。言語で状況を説明できるのは大きな強みになるだろう。「そう、あと10分以内にそっちに着く。エンジン掛けといてくれ。あいつが行ってしまう前に伝えることがあるんだ。」とでも語りかければ視聴者(通行人)への粗筋の説明は完璧だ。

小道具を使うことでそうせざるを得ない様子を演出し、自信を持って走ることが出来るのだけれど、欠点もある。一度きりしか使えないことだ。ドラマチックな事象というのはそう何度も起こるものでは無い。週末毎に同じ場所で時計をチラ見しながら走っていたら、ただの業者だと思われても文句は言えない。

格好良く見えるのなら繰り返しやりたいが、繰り返しやってしまうと格好良くないというジレンマ。

胸を張って堂々と走れて、かつ何度も挑戦できる。これを実現するために競技化するというのはどうだろう。

100mブーケラン創始の瞬間だ。

ブーケランではフィギアスケートと同様に、各プログラムを様々な観点から評価する。技の難度、体のコントロール、歴史や文化といった背景を織り込んだ構成となっているか。

ブーケの形に応じて主に2つの流派に分かれるだろう。オールラウンド流とワンサイド流だ。

オールラウンド流はシルエットが丸くハンドリングしやすい点を活かして、トリプルオールラウンドジャグリングラン、等のアクロバティックな技を極めていくに違いない。一方のワンサイド流は一枚岩ではない。武田信玄の槍騎兵隊に着想を得た騎馬隊と、パルティア王国に代表される遊牧民族弓騎兵による一撃離脱戦法をベースとする騎馬隊がトップを巡って争うことになる。ワンサイドチューリップ騎突走 vs 鳳仙花パルティアンショットだ。

オールラウンド流、ワンサイド流入り乱れてトップ争いが展開される中、タキシードに赤薔薇を一輪携えて走る新人が登場、世のセーラームーンファンから絶大な支持を得るかもしれない。一方で「一輪挿しはブーケランの範疇に含まれるのか」「文化の反映とコスプレの線引きは何か」といったブーケラン全体を巻き込んだ議論も広がっていく。

このような黎明期の混乱がかえって功を奏し、競技人口が増えていく。京都の三十三間堂が流鏑馬の聖地であるように、直線道路に華美なショーウィンドウの並ぶ銀座みゆき通りがブーケランナー憧れの地となっていくだろう。

よりドラマチックなブーケランを求めて、世界の強者と競いたい。

10日後のクリスマスの夜、花束を抱えて街を駆け抜けている男が居たら、それはブーケランの普及にいそしむ僕かもしれない。


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