「社会人になる」という悪魔の契約

ある日電車を降りたくなった。
持病が少し出始めたからである。
私の外見について言及すると、パーカーとリュックとヘルプマークをぶら下げている出立ちである。

そこそこな混雑で、私はドアから1番遠かった。
なので、手を挙げて「恐縮ですが降ります」 と言ったら、酔っ払った会社人たちの一団にいた、顎マスクの中年の男が「俺もここで降りるねん。バカか?」と言ってきた。その場は黙ったけど、後で抑えきれなくなって外で探してしまった。(結局見つからなかった)
「俺はサイレント多数派の代弁者だ」っていう自負が、ありありと滲み出ていて嫌な大人だった。私の発作は酷くなった。

思えば、うちの父が私に何か言うときは「社会は〜」とか「世間では〜」みたいな枕詞が毎回くっついていた。 いわゆる「社会人」になるっていうことは、時間の大部分を「大きな物語」に捧げ、価値観すらも破壊されるかわりに、その絶対性、至上性(supremacy)を自分の背骨として、自分の存在の「説得力」として振りかざせる(つもりになれる)という「思い込み」を得られる という悪魔の契約じゃないか、と思った。

新社会人の皆さん、病人には優しくしてくださいね〜(唐突な終わり)

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