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別れるとき、さくらは流れた

冬は、リビングに駆け込むと、いつも石油ストーブのムッとするような独特の香りが漂っていていて、わたしはこれが特別に好きだった。
実家で過ごしていた頃の話だ。

母は働きに出てはおらず、1日のほとんどをこのリビングで過ごしていた。
娘のわたしが帰ると、必ず玄関まで迎えに来てくれる。
「寒い!寒い!!」
と慌てて靴を脱ぐわたしに、
「おかえり。お部屋あったかいよ」
といつもリビングの扉を開けて招き入れてくれた。

今になって思う。
わたしの学生時代の記憶が半ばおぼろげなのは、もしかすると、このあたたかな部屋のせいではなかったろうか。
つまり、この部屋の外の出来事はすべて、わたしにとっては「有って、無いような」「取るに足らない」「限りなく、どうでもいいこと」であったのかもしれない。

どんな日にも、ここに戻ってさえくれば、
面倒なこともさみしいことも、すべては蚊帳の外のにポイと放り出すようにすることができた。
だれにも邪魔されることのない、とても安全な空間であった。

台所仕事をする母にぴたりと付いては、その日気になったこと、わからなかったこと、思いついたこと……それらすべてを母に話す。
それは幼稚園に通っていたずっと幼い頃から変わらない、わたしの日課だった。

「なぜ、おままごとをするとき、お母さん役をしたがる子と、お姉さん役をしたがる子がいるのか」
という不思議。
「乱暴をする男の子に、先生が、“好きだから、そんなことするのね”と言っていたけど、そんなのはヘンテコではないか」
という疑問。
「わたしは、“ライオン組”になれなかったら幼稚園を辞めようと思っている」
というよくわからない決意。
あらゆることをすべてすべて話すのだ。

母は、わたしをあまり子ども扱いしない人だったから、そのどれに対しても、まじめに返事をしてくれていたように思う。

「幼稚園の中退はやめたほうがええと思うよ。ゾウ組より、ライオン組のほうが、そりゃあ格好はええけど、お母さんはゾウでもいいな。動物園で見たでしょう、頭の中で戦わせてごらん」

母は夢見がちな少女のような純粋さと、どこかサッパリとした現実主義者の側面を両方持っているような人だった。
わたしは、ゾウとライオンの足のサイズを一生懸命に思い出して、なるほど、ゾウにはゾウの武器があることが、そのときなんとなくわかった気がする。

またテレビとは、わたしにとって、長らく「母と話しながら見るもの」であり、母と話す題材を次から次へと提供してくれる、ジュークボックスのような存在だった。
わからないことがあれば「どういう意味?」とすぐに尋ねたし、
お笑いの賞レースを見れば、それぞれ紙に勝手な順位を書いて見せ合った。
小学校高学年にもなれば、ドキュメンタリーを見ながら、
「生きること」や「死ぬこと」、「働くこと」や「お金」について、たがいの意見を話し合ったりもした。
わたしにはそのどれもが面白いおしゃべりだった。

中学生の頃だったか、
「植物状態となって1年半を迎える男性と、その奥さんの葛藤」
を伝える、胸の詰まるようなドキュメンタリーを深夜に一緒に見た。
「いったい、何をもって判断すればいいのか」
ということを明け方までふたりで話し込んだことを覚えている。
結局、
「ゆかちゃんがそうなってしまったら、苦しんでないなら、お金の続く限りは、そのまま生きててもらいたい」
と言われたので、
「わかった」
と承知する外なかった。
そのドキュメンタリーを通して、眠っている側のわたしに決定権があっても仕方のないことのように、その時は思えたのだ。
「お母さんは?」
と尋ねると、
「脳死状態なら、もういいかもしれない。苦しいのは、もっと早めにやめたい。でも、ゆかちゃんが決めていいよ」
とのことだったので、それについても、
「わかった」
と伝える。どうやら父ではなく、わたしに決定権があるようだった。
父と母はけっして仲の悪い夫婦ではなかったけれど、母にとって、わたしはあまりにも特別な存在であったから、「まあ、そうだろうなあ」ということは、無理なくすんなりと理解することができた。

残念ながら、短命な家系なのか、昔からとにかく葬儀に出席する機会の多い子どもで、わたしは「死」をいつもどこか身近なものとして捉えているところがあったように思う。

あるとき、母が大好きなユーミンのアルバムを聴きながら夕飯を作っていたとき、何気なく、
「わたしが死んだら、お葬式はユーミンの『やさしさに包まれたなら』流してな」
とわたしから伝えたことがあった。
大学生の頃だったと思う。母には、
「どこかに書いておきなさい」
と言われた。
お母さんやお父さんじゃ、そのとき居ない可能性の方が高いから、と。
わたしには兄弟もない。
「ドナーカードに書いておこうか」
と言うと、
「それはややこしいわ(笑)。なにかの紙に書いて財布にでも入れとき。お母さんは、森山直太朗の『さくら』ね」
と、自分の注文も付け足す。
「覚えとく。たぶん、わたしは出席するから」
と伝えると、欲をかいて、
「オルゴールのやつじゃなくて、歌声も入ってる方がいいな」
とまで頼まれてしまった。
「はい。可能な範囲で」
とわたしは返す。
なにに影響されたのか、
「遺骨は海に撒いてほしい。あのお墓はあまりにも淋しいから」
という話もしていた。
「あの山奥はわたしも嫌やなあ」
と同調すると、
「ゆかちゃんは結婚すれば、免れるチャンスがあるでしょう」
と言われた。
たしかにそれはそうかもしれないけれど、母と違う墓場だなんて「なんたがつまらないな」、とわたしはそのときぼんやりと考えていた。

****

就職を機に上京し、母とは離れて暮らすようになったけれど、結局駅からの帰り道は必ず毎晩電話で話していた。
「◯◯さんがね、」
と話せば、
「ああ、人事部のね。最初は感じが悪かった人」
「そうそう(笑)」
といった具合に、どんな話でも真剣に、それでいてなんだかおもしろおかしく聞いてくれた。

母はわたしにとって、親友でも理想の恋人でもあったし、やさしい姉でも、かわいい妹のようでもあった。
似たような顔をしていたから、まわりからも「一卵性」と、よくからかわれていたっけ。
なにもかも打ち明けて、なにもかも共有している、わたしは本当にそのつもりでいたのだ。

しかし、上京して4年が経ち、その年の春、父からめずらしくメールが届いた。
「交通費出してあげるから、今度の木曜日帰ってこられへんか」
と。理由を尋ねると、
「母が簡単な手術をする」
というのだ。
慌てて母に電話すると、
「ごめんごめん、大丈夫よ。ポリープを取るだけ。お父さん不安やから、ゆかちゃんにも来てほしいのよ」
と伝えられた。

仕事が嵩張っていて、どうにも行けそうにないと思っていたけれど、
何気なく隣のチームの偉い人に話すと、
「それは、帰ったほうがいいんじゃないかな。脅すわけではないけれど」
と言われた。
なんだか急に嫌な予感に飲み込まれそうになって、わたしは急遽、会社に無理を言って、関西に3日間だけ帰らせてもらうことにした。

母はすでに入院していたが、顔色も良くとても元気そうだった。
「なあんだ」
杞憂だったことに安心して、ベッドに横たわる母に甘えて手遊びをしていると、
いたずらっ子が囁くように、ちょっと意地悪な笑顔で、
「癌やのよ」
と母は言った。
わたしはその表情を声を、今でもありありと思い出すことができる。

しかし、母のそんな伝え方が良かったのかもしれない。
特に頭が真っ白になることもなく、
「早期発見?ポリープみたいに切ればすぐに良くなるやろ?」
と願うように尋ねると、
「そう言われてる」
とまた微笑むから、そうなのだろうと信じる外なかった。

翌日、小さな体に全身麻酔で手術をすると聞いて気が気ではなかったけれど、数時間後、無事に成功したと告げられ、心の底から安心した。
そして、数日後には退院し、また元通りの暮らしをするようになる。

「なあんだ」
と、また肩にのしかかっていた、ナマリのようや荷物を放り出して、わたしも東京で元の生活へと帰っていった。
それほど心配することではなかったのだ、と。

けれど、その年の大晦日。
両親の元に帰ると、たしかに電話やLINEではあれほど元気だった母が、いつにも増して小さく弱々しくなっていて、あきらかに様子がおかしかった。
「しばらく外には出てへんのよ」
と言うから、
「買い物とか郵便局は?いつも荷物送ってくれるでしょう」
と尋ねると、
「ごめん…全部お父さんやの」
と弱々しく白状する。
なんだか全身が痛み、外出する気になれないのだと言う。
「なんで病院に連れて行かないの!」
と父をやや乱暴に責めると、
「1月に改めて検査が決まってるから」
となんだか全てをもう覚悟してしまっているような、素っ気ない返事をされた。

突然、父のことも母のことも、遠い人のように感じて、うまく頭が回らなかった。

ふたりは、母の「もう、だめかもしれない」という事実を、わたしが受け止めることなどできない、と考えているようだった。
ふたりで背負い、ふたりで隠して、わたしが悲しむ様子を見ることは、なるべく先延ばしにしようとしているようにも見えた。

なにとは言わず、
「お父さんでしょう。お父さんがわたしに隠すように言ってるんでしょう」
と涙を堪えながら尋ねると、母は首を振って、
「ゆかちゃんの人生でね、かなしい日は1日でも少なくしてあげたいの。お母さんが勝手にこうしてるの。ごめんね」
と言った。

そうか、この場合は、わたしには決定権などないのか。
ということを、そのときはじめて知って、わたしはただ声を押し殺して布団で眠るしかなかった。

そして年が明けて、1月。
癌は全身に転移しており、程なくして入院、放射線治療が開始されたが、すぐに父とわたしは呼び出され、
「あと4ヶ月ほどと考えてください」
と言われた。
今でもそのときの心地を、じわりと背中から這い上ってくるような感覚を、たまに思い出して味わってしまうことがある。

真っ暗な穴の底に突き落とされ、もう、この先、わたしの未来はすべて閉じてしまったのだ、そんな気分になった。

なぜかそんな時にいちばんに思い浮かんだのは、「結婚式」のことだったから、自分でも本当に本当に呆れてしまう。
母に見せるドレス、母に読む手紙…幼い頃からの夢だった。
しかし、そのとき母はすでに遺影であることを想像すると、悲鳴を上げて泣き叫びたい気持ちになり、たまらなかった。
当時付き合っていた恋人に、嗚咽を漏らしながら「あと4ヶ月だと言われた」と伝え、「結婚式はしない」「結婚式は絶対にしない」「結婚式はしないで」と泣きながら繰り返し、「わかった。わかったよ」という声だけが電話越しに何度も聞こえていた。

わたしは、どこまでも勝手なのだ。
母の人生の終わりを、自分の絶望としか考えられず、自分の体の半分を引きちぎられるような痛みの中で、ああ、もう生きていけやしないのではないか、一緒に去ってしまうことはできないのかと、
そればかりで頭がいっぱいになってしまった。

そこからは、驚くほど急なことばかりだった。
その頃には母は高熱や薬の影響で、支離滅裂な会話しかできない日も増えており、
わたしは会社を休職して、母の病院で寝泊まりをすることにした。
高い熱の日、母は
「帰ってきてくれたん?」
と嬉しそうに言うから、
「うん、会社もマンションもお仕舞いにして、お母さんのところに帰ってきたよ」
と言うと、とてもとても嬉しそうに、
「よかった、やっと帰ってきてくれて」
と頷いた。
なあんだ……
本当はずっと帰ってきてほしかったんじゃないか、わたしを東京になど行かせたくなかったのだ、と気づくと、
「長い間、ごめん」
と泣いて詫びるしかできなかった。

数週間後、いよいよ病院を出て、緩和施設に移ることになる。
「どこにいくの?」
と高熱にうなされながら母が言うから、
「もっと景色のいい病院よ。よかったね」
と伝えたら、
「そう。ええねえ」
と力なく返事していた。
しかしその夜、母は熱のせいかとても苦しそうにうなされた。
「だいじょうぶ?だいじょうぶ?」
と体をさすって尋ねると、
「火事。火事かもしれへんわ。ゆかちゃん、火事やったら一緒に逃げてね」
と言うのだ。
「だいじょうぶよ。火事は起きてないし、起きたら、抱っこして逃げてあげる」
と言ったら、
「ありがとう」
とつぶやいて、ぐっすりと眠る。

そして、この一件で、わたしは本当にわからなくなってしまったのだった。

数日後、ついに「決めるとき」が訪れてしまう。
先生に呼び出され、
「いま管を通して入れている水の量を徐々に減らしていけば、あと数日で…ということになると思います。痛みもあるようですし、そのようにすることもひとつです」
と告げられた。
父に電話しようかと思ったけれど、あの日のことを思い出していた。
「ゆかちゃんに委ねる」
と母は言っていたのだ。
そして、「苦しいのは早めにやめたい」と言っていた。間違いなくそう言っていたのだけど。

「水、減らさないでください……」

言ってしまった。
火事なら一緒に逃げてほしい、そう言われた。
母はまだ生きたいのだ、そういう意味に違いない。
もう高熱と痛みでうなされているだけの母のそんな一言を楯に、
わたしは自分の悲しみを先送りにすることを選んでしまった。

「わかりました、様子を見ましょう」
先生は、それ以上はなにも言わなかった。

夜、父に電話で
「水を減らさないか、と言われた。減らすと、あと数日って。
でも、お母さんが嫌がってそうだったから、減らさないでもらった。
ごめん。勝手にごめん。お母さんがそう思ってなかったらごめん」
と震えるように伝えると、
「そう思ってたかどうかは、この先も一生わからんことや。あんたが決めたことをお母さんは怒らへんから。また気が変わったら先生と相談しよう」
と言った。
あとから聞けば、父はこのとき、葬儀の段取りまで進めていた。
わたしとは、覚悟と我慢の深さが違った。

そして、数日後。
テレビからは『懐かしのメロディ』のような番組が流れていて、
小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』が流れているときだけ、
母はふっと目を開いて、わたしが曲に合わせて手をさするのを
軽く握り返していた。
そして、ゆっくりゆっくりと力を失っていき、
日付を超えてしばらくしたその夜中に、本当に居なくなってしまった。
4月のはじめ、桜がこぼれるように咲きしだれている、春の日だった。

長い間眠らずにいたせいか、お通夜の晩、久々にわたしはぐっすりとよく眠った。
「このまま目覚めたくないなあ」
小さな葬儀場で貸してもらった居間は、石油ストーブのいい香りがしていて、目覚めると一瞬嬉しくなったけれど、すぐに現実に引き戻されて、全身が脱力してしまった。

****

葬儀が始まった。
すべて父に任せきりで、わたしはただただ頼りなく力なく、横に座っているだけだ。
けれど、次の瞬間はっとして、
「これ、お父さんが頼んでくれたん?!」
と尋ねると、父は「なんのことか」ときょとんとしていた。
BGMに、森山直太郎の「さくら(独唱)」が流れていたのだ。
「『さくら』が流れてる。お母さんがこれがいいって言ってた。『さくら』が流れてる。すごい。すごい、こんな偶然ないやんね?」
と父に慌てながら囁くと、
父は顎で、ふすまの向こうに見える、ガラス扉の方をクイッと指しながら、
「咲いてらあ。偶然と言えば偶然。ようできとんなあ」
と言った。
ガラスの向こうには、あっと驚くほどの桜が風にサワサワと揺れており、花びらが雪のように、ひらりひらりと舞っていた。
「お母さん、さくらは流れたよ」
そう心の中で思っていたけど、
「ああ!歌声が必要なんだった…」
その『さくら』からは、森山直太朗の声は聞こえず、お琴で奏でているような音色だった。
「惜しいけどなあ…」
と、小さくわたしは肩を落とした。

****

父には、「あのお墓は嫌なんだって」だなんて、とても言えなくて、
「東京に持ち帰りたいから」
とだけ言って、わたしは母の骨を少しだけ分けてもらうことにした。

小さな仏壇に少しと、残りはネックレスにしてもらっている。
いつか「これは」というきれいな海とどこかで出会ったら、
ネックレスを壊して、ほんの少しの中身を撒こう。
ひとつぐらいは叶えてあげたいと考えている。

****

7年の月日が経った。
ご両親が元気な友人を見ると、今でもいいなあ、と本当はたまらなく羨ましくなる。
そして、それと同時に、
「なるべく、たくさんたくさん話してほしいなあ」
と心の底から本当に願うのだ。

こんな世の中だけれど、電話だって、メールだって、手紙だって構わないと思う。
そのひとつひとつを拾い集めれば、見えてくるものがあるかもしれないし、
時間をかけて、ふと思い出し、
遅れてから意味に気づくような。
そんな、言葉たちがたくさん潜んでいるかもしれない。

あんなにたくさん話したのに。
こんなにたくさん知っていたのに。
訪れるときは本当に急で、人は、わたしは、本当に弱いから。
叶えてあげられないことがある。
勝手に押し付けてしまったことが、きっと他にもたくさんあった。

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満開の桜を見上げると、毎年思う。
「偶然にしては、できすぎだよなあ」

「1日でもかなしい日が少ないといい」。
そんな母のいちばんの願いをなるべく叶えられるよう、そんなふうに愛されていたことを忘れぬよう、
生きていこうとわたしは今日も考えている。

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