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「替えのきく有能」による「分かりやすい指導」が労働力を量産化してその主観的な価値を下げる副作用


 
 
 
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注意


 
 
特撮テレビドラマ
 
 
『ウルトラマンティガ』
『ウルトラマンメビウス』
『ウルトラマンギンガ』
『ウルトラマンギンガS』
『ウルトラマンジード』
『ウルトラマンR/B』
『ウルトラマンタイガ』
『ウルトラマンZ』
 
特撮映画
 
 
『劇場版 ウルトラマンR/B セレクト!絆のクリスタル』
『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』
『ULTRAMAN』(2004)
『シン・ゴジラ』
 
 
 
テレビアニメ
 
『新世紀エヴァンゲリオン』
 
 
 
小説
 
『ソリトンの悪魔』
 
 
 
漫画
 
『ラーメン発見伝』
『NARUTO』
『左ききのエレン』(少年ジャンププラス)
『キミのお金はどこに消えるのか』
 
 
テレビドラマ
 
 
 
『TOKYO MER』
『日本沈没-希望のひと-』
 
『下町ロケット』(2015)
『下町ロケット』(2018)
『下町ロケット ヤタガラス 特別編』
『陸王』
 
 
 
これらの重要な情報を明かします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

はじめに


 
 「替えのきく有能」は分かりやすい指導で、比較的自分より劣る能力の人間を引き上げられると説明しました。
 しかし、これには副作用があります。「人材を量産して、労働力の主観的な価値を下げることで賃金が上がりにくくなる」ことです。
 




2022年5月25日閲覧
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

『資本論』への批判


 
 
 
 まず、マルクスの『資本論』について、様々な経済学の観点からの批判があります。
 まず、人物Pが商品Aを、人物Qが商品Bを差し出して交換する(商品のどちらかが貨幣、あるいは両方が異なる種類の貨幣でも構いません)のは、マルクスは「Aの交換価値=Bの交換価値」であるためだとしています。なお、物体としての使用価値と、商品としての交換価値は異なりますが、ここでは深入りしません。
 また、商品の共通する価値の源を、マルクスは「労働」だとしています。たとえば『資本論』では、ダイヤモンドが小さくても大きな交換価値を持つのは、掘り出すのに多大な労働力が使われているためだとしています。
 これについて、木村貴さんはマルクスを批判するに当たり、「等価交換」と「労働価値」の問題点を挙げています。
 まず、先ほどのAとBの交換は、Pにとっての交換価値が「A< B」であり、Qにとっては「B<A」なのであり、仮に双方が「A=B」だとみなすならば、返品をいつしても満足するはずであり、多くの場合でそうならないのは大小関係の逆転があるためだと木村さんは説明しています。
 また、労働価値についても、賃金は需要と供給で決まるとしています。
 自由な市場ならば、需要と供給により賃金は下がることもあると説明しています。
 
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3064412017052018000000?page=2
 
2022年5月25日閲覧
 
 具体的には、労働を多く投入するサービス業などの賃金が上がっても、それを目指して多くの企業が参入して供給が増えることにより価格は下がり、賃金も安くなるとされます。マルクスの少しあとに経済学者のベームバヴェルクがそう指摘したとされます。
 
 
 
 
 佐藤優さんも、『希望の資本論』で、等価交換は「誰かが商品を持っているからといって他の人間に別の商品に交換してもらえるとは限らない。マルクスは数学が苦手だったので、それが分からなかった」と説明しています。労働価値説についても、「今の経済学ではほとんど扱われない」としています。ベームバヴェルクの名前も挙げています。
 ここでの数学とは、Pにとって「BがもらえるならばAを手放して良い」であり、Qは逆であるという論理学の必要条件と十分条件の検証だと見られます。
 『キミのお金はどこに消えるのか』で、「経済において、絶対的な価値を見つけようとするのは害悪だ」という説を紹介しています。「見つかればそれを生まない人間が絶対悪になってしまう」としています。「価値の源は、ある物を売りたい人と買いたい人の価値観の差」だと主張しています。
 使用価値と交換価値など、「価値」の定義の説明が難しいのですが、私も同意します。
 しかし、佐藤さんは「『資本論』のその矛盾をどう読み解くかで、論理が強くなる」と説明しています。『資本論』の搾取の概念も重視しています。
 佐藤さんの薦めるように、『大論理学』などを読んでいるわけでもない私にはまだ難しいのですが、確かに『資本論』は論理を裏から読んでは表に戻ることで見えて来るものがあります。
 それは、「労働価値説は間違い」から、「マルクスは何故間違えたのか」、「その間違いを多くの人間もするのは何故か」、「そもそも労働に価値を感じるのは何故か」など、否定したあと一回りすることで独特の論理を展開出来るものがあります。
 『NARUTO』で、忍者同士の争いの中で老人のオオノキが、自分より年長であり特殊な手段で生き返ったマダラに「わしは学んだ。そして一回りした」と言ったのを連想します。
 
 
 

労働者、経営者、消費者の「自由」と「平等」

 
 
 
 前置きが長くなったかもしれませんが、労働価値説を崩す現象が、「替えのきく有能」によって起きること、そこに「等価交換」の間違いも絡むという私の仮説を説明します。
 まず、『資本論』では、資本主義での(近代産業)の労働者は労働力という商品を経営者に売り、どこの経営者のところにも売りに行ける、つまり就職出来る「自由」=「フライ」と、労働力以外に売るものがない「フライ」(ストレスフリーのような、「これがない」という意味でのフリーに通じます)があるとされます。
 経営者には労働者を選ぶ「自由」があり、労働者にも経営者を選ぶ「自由」があり、その2つから労働者と経営者は契約の上では「平等」だとされます。
 これは池上彰さんも説明しています。
 しかし、労働者、経営者、そして消費者の3者で社会を分けますと、この「自由」と「平等」の問題点に気付きます。
 
 

賃金を保ったまま商品やサービスを向上させる負と正のフィードバック


 
 
 
 まず、「有能」な人間の労働力による商品やサービスが向上しても、それで賃金を上げると同業種の他の企業が増えたり、高い給料を目指して新人が増えたりします。
 
 その新人のところに、私の表現する「分かりやすい指導」を出来る、自分の能力や知識を伝達出来る「替えのきく有能」な上司や先輩がいるとします。
 すると、労働力は『左ききのエレン』の表現のように「量産」され、近い質の「商品」や「サービス」を生み出し、供給が増えることで、全体の質は上がっても消費者は安い価格のものを選びやすくなり、同じ労働力でも、消費者にとっての主観的な価値は下がります。
 すると、労働力は安く質の高いものとなり続けます。
 競争というのは、する側にとっては、抜きつ抜かれつの負のフィードバックが働きますが、その利益を受け取る側にとっては結果が向上し続ける正のフィードバックが働きます。螺旋階段を登るようにです。
 佐藤優さんは、「日本の左翼が気付かなかったのは、資本主義によって日本が豊かになっていたこと」だと説明しています。この螺旋階段が社会に貢献する商品やサービスを向上させたのでしょう。
 商品やサービスの価格を消費者と経営者の間の「平等」により「適正価格」にする負のフィードバックと、その条件でも商品やサービスを量産品として向上させ続けるために労働者の負荷を強める正のフィードバックにより、「螺旋階段を登る」のが資本主義の功罪である、と私は考えます。

 負と正のフィードバックを併せ持つ現象は、螺旋階段のような変化があり、認識するのも難しいと見られます。



2022年5月26日閲覧



 それが日本社会を豊かにさせた面があるのでしょう。
 そして資本主義の「平等」とは、労働者の労働力を商品として安上がりにする正のフィードバックの中で、経営者の司る供給と消費者による需要による、言わば「適正価格」を保つ負のフィードバックを指しているのであり、労働者の負荷が螺旋階段のように上がらざるを得ないと私は考えています。
 賃金を経営者と消費者の間で左右する「自由」はあるでしょうが、労働者の「自由」ではありません。ただし、労働者も別の場所では消費者になりますが。
 
 

螺旋階段同士が組み合わさる「景気循環」


 
 しかし、労働者の賃金が下がる一方でいずれ革命が起きるという『資本論』の主張を佐藤優さんは、『いま生きる資本論』で「マルクスの一番の間違い」としています。その根拠は、「景気循環により賃金には調整作用もある」ということでした。
 私が辞典で調べたところ、景気循環は在庫変動、設備投資、建築、技術革新の順番に長くなる周期の4種類があるとされます。
 これは、労働者もまた、「在庫」のもととなる材料、設備や工場の建築物や新しい技術を下請けの企業などに要求する消費者に近い立場になると考えられます。その別の螺旋階段により、向上する商品やサービスとして材料や設備や建築物や技術を受け取ることで、労働者も別の場での消費者として資本主義の利益を受け取る側になるとみられます。
 『キミのお金はどこに消えるのか』でも、マルクスの主張する「剰余価値」は確かにあったけれども、資本家も別の場では搾取されるので、誰が悪いかは断定出来ないとあります。
 しかし、この漫画でも、格差などは問題視しています。
 資本主義の螺旋階段は労働の質や量に対する賃金を相対的に下げますが、その労働も在庫、設備、建築物、技術を支える別の労働により賃金を上げてもらえるのではないでしょうか。
 「替えのきく有能」による労働力の量産化が招く弊害は、まず労働者が別の意味で消費者になることを踏まえた景気循環で、ある程度解決出来る可能性があります。
 
 

「等価交換」の間違いから「労働価値説」の間違いを説明する


 
 
 さらに、「等価交換」の間違いからも、この「労働価値説」を崩す現象は説明出来ます。
 まず、Zの経営する会社Pの社員Xが、商品あるいはサービスAを作り、それを消費者Q(特定の人間でなくても構いません)が何らかの商品(あるいは貨幣)Bで払うとします。
 このとき、交換価値は、Pにとっては「A<B」であり、Qにとっては「B<A」です。
 Xが労働の精度や量を向上させて、Aの質を上げますと、Qにとっては「B<< A」となり、さらに喜びます。しかし、Pにとって「A<B」から「B≦A」に変化しても、不満は言いにくくなります。
 その原理は、以下のようになります。
 Pの賃金や待遇が一時的に上がれば、それを目指して同業種の別企業Rや、Pに入る新人Yが現れ、「会社員に必要なのは、替えのきく有能」なので、XはYに「分かりやすい指導」をして、自分と同じAを作れるようにします。Rの労働者もそうするでしょう。
 すると、「A」は量産された商品の集まりになり、これを「A'」とすれば、その中でも企業や部署によるばらつきで、Qは安いものを選び、Pにとって「A< B」から「B<< A」になったとしても、Qにとっては「B<<A」から「B<A'」になったように感じ、商品の消費者にとっての主観的な価値は下がっているのです。
 労働者自身の誠意による分かりやすい指導は、量産によってAをA'、さらにA''に変えるのを続け、労働者にとって不利な螺旋階段になるのです。
 供給と需要の問題だけでなく、大規模な工場の設備や建築物によって、労働者の共有する道具や場所が安価に変えられる面もあるでしょう。しかしその設備や建築物を作る下請けに払う金額を下げるか、自分達の労働者の賃金を下げるかの選択を、経営者も迫られるでしょう。
 
 

「替えのきく有能」が追い抜かれるとき


 
 さて、私が検証したウルトラシリーズの「替えのきく有能」についてですが、『ウルトラマンギンガS』では「きかない有能」だった主人公のヒカルが、前作『ウルトラマンギンガ』では部分的に「きく有能」だったことを挙げました。
 特にヒカルの場合は、『ギンガ』での、ウルトラシリーズでも珍しい「誰でも怪獣やウルトラマンに変身出来るかもしれない」状況が、特殊な結末を迎えています。「指導した主人公が、指導された大勢の人間に追い抜かれる」可能性があるのです。
 ヒカルは、敵によって怪獣として暴れた、あるいはそうなりかけた人間に勝利しつつも、そのあと説得することも視野に入れ、友人の健太や千草や美鈴、そしてライバルのような友也も味方にしていきました。
 そして美鈴を始めとして多くの人物が、「夢に敗れた」とも言える状態からやり直すこともありつつ、防衛チームのいない中で怪獣やウルトラマンに変身してヒカル=ウルトラマンギンガを援護します。
 そして、最終回では、悪役だったはずの人間も含めて、その場にいた全員が、無力に思えていたウルトラマンタロウと一体化して復活させ、ギンガを倒した敵「ダークルギエル」に立ち向かいました。
 タロウはルギエルの光線さえなければ格闘では圧倒し、そのあとタロウにルギエルは勝利しましたが、タロウのエネルギーで復活したギンガがルギエルと格闘では互角、光線で上回ったことを考えますと、タロウはギンガを部分的に超えていました。
 これはヒカルが自分だけに最初出来ていた「変身」という「有能さ」を、周りに伝達したことでの勝利だったと言えます。
 
 しかし同時に、言わば『NARUTO』のうずまきナルトが師匠の自来也や先生のイルカやカカシを追い抜いたような現象を、主人公が抜かれる側になる物語として描いた部分があります。
 現実の資本主義では、ヒカルのような「替えのきく有能」は、量産された労働力を持つ労働者の中で、やがて「使い捨て」にされる危険性があります。
 上田紀行さんは、日本のある首相が「政治家だって使い捨てだ」と話したのに憤る記述を『かけがえのない人間』でしています。
 「たとえ自分自身や同業者でも、人間を使い捨てにするのが政治家の発言ではない」ということでしょう。
 しかし、主人公が優秀な人材を育てたあと追い抜かれて取り残されるのを、自己犠牲的な美談として描く物語もあるかもしれません。
 ちなみに『ラーメン発見伝』では、博多トンコツラーメン店がそのように扱われています。
 
 

ウルトラシリーズに欠けている現実的な側面


 
 
 仮に「頼もしい仲間」として自分と同じ労働力を持つ労働者を「分かりやすい指導」で育てても、育てた側は資本主義では常に優遇はされません。
 その原因は、ウルトラシリーズに欠けている、資本主義にある「優秀な実績をあげる、自己犠牲的に振る舞う主人公にも周りが代価を払っている」、「周りが代価を払い切れなければ、主人公も失業の危険があり、その失業だけで世界や人類が滅ぶほどのことにはならない」という側面です。
 ウルトラシリーズのウルトラマンは、大抵は太陽エネルギーなどの人間に負担をかけないエネルギーを使い、自分の出す成果に対して代価を求めません。だからこそ特撮としての牧歌的なところがあります。
 防衛チームも、そのための税金はあまり言及されません。『ウルトラマンメビウス』や『ウルトラマンZ』では、予算を気にする上司がいますが、口うるさいような扱いになっています。また、近年は人間による公共の防衛組織がない『ウルトラマンジード』、『ウルトラマンR/B』、『ウルトラマンタイガ』などがありますが、ウルトラマンを援護するための税金を人間が特別に払うわけではないという差異は特に説明されません。
 それどころか、『R/B』劇場版では、「ウルトラマンが壊した町を直すのは我々の税金ですよ」という不満の台詞さえ登場しました(この作品の本編ではウルトラマン同士が争い、最後まで和解しなかったオーブダークがいるので、ウルトラマンを味方とみなせるか難しいのですが)。税金の話題をすると「辛気臭い」かのように扱われるのが、本来「子供向け」の特撮であるためでしょう。
 ちなみに、『ソリトンの悪魔』ではウルトラシリーズやゴジラシリーズに近い要素がありますが、自衛隊員の中で「有事には真っ先に死ぬ確率が高い」部署は常にステーキが食べられるという描写がありました。『新世紀エヴァンゲリオン』のように、「ステーキで喜ぶか」は別な場合もありますが。
 実写映画『ULTRAMAN』(2004)でも航空自衛隊員の主人公やその仲間がいますが、優しく映る彼等が、知らないところでぜいたくな食事をしていたという印象は私にはありませんでした。ウルトラシリーズはそのような経済的な事情を描きにくいのでしょう。
 つまり、ウルトラマンや防衛チームが防衛を行うのを市場として、「供給」と表現しますと、「需要」である民間人などが支える労働などの代価が見えにくいのが、特撮の牧歌的な部分です。
 また、描かれるのが世界的な災害や人類全体への被害になりやすく、逆に日本の防衛力が怪獣などに使われて他国に付け入られる、つまり人類同士の争いや不幸を喜ぶような現象はあまり扱われません。
 どちらかと言えば「大人向け」の特撮である『シン・ゴジラ』では、それこそゴジラによる経済的な影響で得をする人間もいる「多種多様」なところが説明されましたが。
 そのため、仮にウルトラマンや防衛チームが「替えのきく有能」になり、需要の側である人間が労働で支えにくくなった、ウルトラマンを援護しにくくなったなどの事情が生じても、隊員が一人でも辞職すれば世界全体の危機になりやすい「大惨事の寸前」な状況なので、失業はしにくいのです。
 ウルトラシリーズは、現実に比べて主人公が周りに負荷をかけにくい「牧歌的な」部分と、失敗すれば無関係な人間や世界が被害を受けやすい「悲惨な」部分があるのです。
 逆に言えば、現実はウルトラシリーズのような「自己犠牲的に振る舞う主人公」のような人間が仕事をしても、その仕事のためにエネルギーや設備や資源を周りの民間人が経済的に注がなければならず、さらに1人が辞職しただけで世界や人類全体が滅ぶほどもろくはないため、「替えのきく有能」を目指した優秀な人間でも、労働力の量産化により「失業の危険」があるのです。
 『ギンガ』の時点のヒカルのような「替えのきく有能」は、元々民間人の自分に出来た「怪獣への変身」から始まった、「怪獣に変身した悪人でも心を改めて自分以上の能力を部分的に持つウルトラマンになれる」という「奇跡」のような現象を起こせますが、現実の「主人公への給与」、「辞職しても世界全体には響かないような対策」の要素を加えますと、「使い捨て」にされる危険性があります。
 
 
 

「替えのきく有能」が「きかなくなった」ときの落差


 
 ちなみに『ギンガS』では、ヒカルを含めた限られた人間しか変身出来ず、ヒカルは「替えのきかない有能」に近付き、自分達を疑う上官の神山に憤りました。これは以前の記事で説明しました。
 しかし、私はこの原因として、『ギンガ』最終回でタロウに変身した人間達の「証言」も考えています。描写の範囲を超えた推測ですが。
 地方都市に住む、同じ小学校の馴染んだ集まりでしたが、数十人の人間が同じウルトラマンに一斉に変身するのは前例があまりなく、ヒカル達にとってもそのあと隠すように頼むのが難しいでしょう。とりわけ、最終回と続編の間に何があったかの描写は、最後を盛り上げる意外な展開と続編の日常を繋ぐのが難しいところが、様々な作品にあります。
 そして、『ギンガS』の防衛組織はギンガの存在は知っていました。つまりタロウに変身した『ギンガ』の人々も、数少ない証言者として伝えた可能性があります。
 しかし証言者が全員同じ嘘でウルトラマンや自分の正体を隠すのは難しいでしょう。「全員の発言が一致しないから怪しい」と解釈される可能性があります。『ウルトラマンティガ』第2話では「怪獣の角の本数」に関してそのような描写がありました。また、『ティガ』最終回で大勢の子供がグリッターティガになったことは、『ウルトラマンダイナ』劇場版によると、「夢だった」と解釈されたところもあるようです。
 それが神山に、「ウルトラマンに関する味方だという証言はどこか怪しい。当てにならない」と解釈させたのではないか、と私は推測しています。ただし、繰り返しますが、描写はありません。
 つまり、ヒカルから能力や知識を伝えられた「替えのきく有能」だったはずの人々が、防衛組織に対しては伝えられずに怪しまれて「替えのきかない有能」になってしまい、それが神山のウルトラマンへの警戒を生み、さらにヒカルを怒らせて「替えのきかない有能」に変えてしまった可能性を私は考えました。
 「替えのきく有能」は、自分と同じ能力を持つ人間を生むものの、途中で引き継ぎに失敗すると裏目に出て、「替えのきかない有能」になれば落差が激しくなってしまうかもしれません。
 
 

『雨ニモマケズ』と「替えのきく有能」への印象


 
 
 
 私は「替えのきく有能」について、「そういうものに私はなりたい」と目指したくなる部分があります。つまり、『雨ニモマケズ』のような美談に感じるのですが、それは自己犠牲やその強要を正当化してしまうかもしれません。
 『雨ニモマケズ』は滅私奉公の正当化のように扱われる部分もあったと聞いたことがありますが、資本主義の「替えのきく有能」に『雨ニモマケズ』を適用した末には、世の中全体ではなく自分の会社の資本に尽くす、「滅私奉資」になってしまいます。
 競合企業や下請けや国の規制などを敵視する残忍さも生まれるでしょう。資本主義では、個人は直接世の中全体には尽くせないのです。
 
 
 

日曜劇場はウルトラシリーズの要素を取り込んでいるような部分がある


 
 また、ウルトラシリーズならまだしも、日曜劇場で「替えのきく有能」を目指す部分があるのは痛ましいところが見られます。
 日曜劇場では、『下町ロケット』、『陸王』など、「ブラック企業」とネットで扱われる例があります。
 日曜劇場では、犯罪を扱うドラマなら日本中が騒然となる重大な事件、あるいは日本規模の災害なども起きます。
 しかし、ウルトラシリーズと異なり世界全体を滅ぼすほどの事件はまず起きず、『日本沈没-希望のひと-』では日本の災害で得をする人間の描写などもあります。
 また、ウルトラマンが給与を求めないのは、それなしに生活しやすいためでもあります。その意味で、日曜劇場の企業に勤める人間が待遇や給与の改善を求めるのは、ウルトラマンに比べれば必要な部分の多い権利であり、ウルトラシリーズの主人公の自己犠牲を美談として日曜劇場に当てはめるわけにはいきません。
 これは当然ですが、日曜劇場では、医療や農業を扱う『下町ロケット』で、「困っている人間を救うため」に残業が当然のようになり、『TOKYO MER』で「患者が死にかかっているなら医者は命を懸けて当然だ。通行人も輸血ぐらいしなければ邪魔だ」というような主張を主人公達がしています。
 これでは、労働基準法の概念が軽視されます。
 『TOKYO MER』では「ブラック企業」が悪役で、労働者は患者の一部でしたが、仮にその企業が医療器具を作り主人公に卸すメーカーであれば、それは『下町ロケット』の主人公達に近くなります。労働者が不満を言っても「お前が働かなければ患者が死ぬぞ」と主人公のように正当化しかねません。
 主人公達が「どうしても救うべき人間」を目前にして「滅私」をし続けるのを「美談」にするのは、ウルトラシリーズの「主人公への給与」あるいは「見返り」などを軽視した概念や、「主人公が失業すれば重大な不幸が発生する」という現実以上の危機感を現実世界で当てはめて、歪みが生じています。
 それは、「人間の労働者は困っている人間を助けるのは仮にウルトラマンと同じだとしても、自分ももろい人間であり、困る側でもある」、「ある労働者がある企業を辞職しても、ウルトラシリーズと異なり、困るのはその企業などの限定された人間であり、むしろ他の企業などに移って他の人を助けられる可能性がある」という視点を見えにくくすることで、労働者を一方的に働かせる企業に都合が良くなります。
 「お前の代わりはいないんだ。辞めれば大勢の人間に迷惑がかかる」と言って高い質の労働力を求めつつ、消費者や経営者の都合が変われば簡単に解雇出来る、本当は「代わりがいる」のが「替えのきく有能」なのです。それを日曜劇場は、「社員が失業する」恐怖のある現実を、ウルトラシリーズのように歪めています。
 ただし、日本は先進国と比較して、賃金が上がりにくい代わりに失業率は低いらしいですが、一度失業すると再就職しにくいでしょう。
 端的に言いますと、日曜劇場の企業の人間には、「自分はひとりではない」という結束はありますが、「この世の全員とは結束出来ない」のです。それは結束しない人間に悪意があるためだけではないのです。それに気付きにくいのが、会社員に向く「替えのきく有能」だと言えます。

 ウルトラシリーズと異なり労働者が社会や人間全体に尽くせない構造でありながら、他の企業などに関わる人間に尽くす選択肢や、自分の身を守る論理を見えにくくしているのが、日曜劇場で描かれる労働だと言えます。
 
 
 
 
 
 
 

まとめ



 
 こうして、「替えのきく有能」とフィードバックと「平等」の定義から、労働価値説を崩す現象が螺旋階段のように賃金を保ちつつ労働者の負荷を上げる原因を説明しやすくなります。
 螺旋階段同士の組み合わせによる景気循環も無視出来ませんが。
 さらに、ウルトラシリーズは「自己犠牲的に振る舞う主人公への給与」、「失業の恐怖」を省いた牧歌的な要素があるため、「替えのきく有能」が頼もしく映るにとどまってしまうところがあります。
 ウルトラシリーズの現実離れした部分を強調したところを裏と表から見ることで、「替えのきく有能」の善し悪しを考えられます。
 
 
 

参考にした物語



 
 
特撮テレビドラマ
 
 
村石宏實ほか(監督),長谷川圭一(脚本),1996 -1997,『ウルトラマンティガ』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)
アベユーイチほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2013 (放映期間),『ウルトラマンギンガ』,テレビ東京系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2014 (放映期間),『ウルトラマンギンガS』,テレビ東京系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),安達寛高ほか(脚本) ,2017,『ウルトラマンジード』,テレビ東京系列(放映局)
武居正能ほか(監督),中野貴雄ほか(脚本),2018,『ウルトラマンR/B』,テレビ東京系列(放映局)
市野龍一ほか(監督),林壮太郎ほか(脚本),2019,『ウルトラマンタイガ』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),吹原幸太ほか(脚本),2020,『ウルトラマンZ』,テレビ東京系列(放映局)
 
特撮映画
 
 
武居正能(監督),中野貴雄(脚本),2019,『劇場版 ウルトラマンR/B セレクト!絆のクリスタル』,松竹(配給)
小中和哉(監督),長谷川圭一(脚本),1998,『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』,松竹(配給)
小中和哉(監督),長谷川圭一(脚本),2004,『ULTRAMAN』,松竹(配給)
庵野秀明(総監督・脚本),2016,『シン・ゴジラ』,東宝(提供)
 
 
 
テレビアニメ
 
庵野秀明(監督),薩川昭夫ほか(脚本),GAINAX(原作),1995-1996(放映期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,テレビ東京系列(放映局)
 
 
 
小説
 
梅原克文,2010,『ソリトンの悪魔』,双葉文庫
 
 
 
漫画
 
久部緑郎(作),河合単(画),2002-2009(発行期間),『ラーメン発見伝』,小学館(出版社)
岸本斉史,1999-2015,『NARUTO』,集英社(出版社)
かっぴー(原作),nifuni(漫画),2017-(未完),『左ききのエレン』,集英社
井上純一/著,飯田泰之/監修,2018,『キミのお金はどこに消えるのか』,KADOKAWA
 
 
テレビドラマ
 
 
 
武藤淳ほか(プロデュース),松本彩ほか(演出),黒岩勉(脚本),2021,『TOKYO MER』,TBS系列
小松左京(原作),橋本裕志(脚本),東仲恵吾(プロデュース),平野俊一ほか(演出),2021,『日本沈没-希望のひと-』,TBS系列
伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),池井戸潤(原作),2015,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎(脚本),池井戸潤(原作),2018,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎(脚本),池井戸潤(原作),2019,『下町ロケット ヤタガラス 特別編』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸(脚本),池井戸潤(原作),2017,『陸王』,TBS系列(放映局)
 
 
 
 
 

参考文献


 
池上彰,2009,『高校生から分かる「資本論」』,ホーム社
池上彰,佐藤優,2015,『希望の資本論 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』,朝日新聞出版
カール・マルクス(著),今村仁司ほか(訳),2005,『資本論 第1巻 上』,筑摩書房
カール・マルクス(著),今村仁司ほか(訳),2005,『資本論 第1巻 下』,筑摩書房
佐藤優,2014,『いま生きる「資本論」』,新潮社
上田紀行,2008,『かけがえのない人間』,講談社
マルクス(著),エンゲルス(編),向坂逸郎(訳),1979,『資本論 1』,岩波文庫

木村貴,2022,『反資本主義が日本を滅ぼす』,コスミック出版


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