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「追放」を扱う作品や『クレヨンしんちゃん』から、現代日本のワーキング・プアや経済、マルクスや通貨発行の問題を探る


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注意

 これらの重要な展開を明かします。

特撮テレビドラマ

『ウルトラマン』
『ウルトラセブン』
『帰ってきたウルトラマン』
『ウルトラマンティガ』
『ウルトラマンダイナ』
『ウルトラマンガイア』
『ウルトラマンネクサス』
『ウルトラマンギンガS』

漫画

『クレヨンしんちゃん』
『鋼の錬金術師』
『ドラゴンボール』
『らーめん才遊記』
『NARUTO』
『キミのお金はどこに消えるのか』
『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』
『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』
『逆資本論』
『こんなに危ない!?消費増税』
『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』
『一瞬で治療していたのに役立たずと追放された天才治癒師、闇ヒーラーとして楽しく生きる』
『ブラック魔道具師ギルドを追放された私、王宮魔術師として拾われる〜ホワイトな宮廷で、幸せな新生活を始めます!』
『味方が弱すぎて補助魔法に徹していた宮廷魔法師、追放されて最強を目指す』
『ようこそ『追放者ギルド』へ〜無能なSランクパーティーがどんどん有能な冒険者を追放するので、最弱を集めて最強ギルドを創ります』

テレビアニメ

『新世紀エヴァンゲリオン』

特撮映画

『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』
『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』
 

テレビドラマ

『下町ロケット』(TBS,1期)

はじめに

 近年、ファンタジーを中心に、「追放」を扱う物語が増えているようです。
 主人公がパーティーやチームに貢献しているにもかかわらず、それを理解されずに一方的に追放され、主人公は新しいパーティーなどで活躍し、追放したパーティーは没落するというもののようです。
 これらについて、「貢献したならば何故それを主人公達が説明しないのか」、「説明したならば何故それを理解せずに追放する人物がいるのか」、「追放された時点で本当に役立たずで、あとで力に目覚めて再起する場合は、追放自体はやむを得ない」などの批判があるようです。
 そこで、私個人の知識で、近年の追放の物語が増える心理や背景を掘り下げたところ、かなり前の『帰ってきたウルトラマン』、それを1993年に扱った評論『怪獣使いと少年』、『クレヨンしんちゃん』原作番外編「ヘルニア国物語」、さらに現代日本の賃金と失業率の問題が関係していると考えました。
 さらに、マルクスの剰余価値や需給の経済問題なども含めて、現代日本の人間心理を推測します。

「追放」の物語の例

 私が「追放」の物語をいくつか見たところ、
『一瞬で治療していたのに役立たずと追放された天才治癒師、闇ヒーラーとして楽しく生きる』(以下『闇ヒーラー』)
『ブラック魔道具師ギルドを追放された私、王宮魔術師として拾われる〜ホワイトな宮廷で、幸せな新生活を始めます!』(以下『ブラック魔道具師ギルド』)
『味方が弱すぎて補助魔法に徹していた宮廷魔法師、追放されて最強を目指す』(以下『味方が弱すぎて』)
『ようこそ『追放者ギルド』へ〜無能なSランクパーティーがどんどん有能な冒険者を追放するので、最弱を集めて最強ギルドを創ります』(以下『追放者ギルド』)がありました。

 これらは全て漫画版を扱います。

 また、「追放」ではなく自ら辞める物語ですが、参考になるものとして、
『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』(以下『もう働きたくないんです』)があります。
 これらを参考にして行きます。

追放する側の「災い」を「福」に転じたのは感謝すべきか

 『ブラック魔道具師ギルド』では、主人公が地味ながら優秀な魔法を使い、それをギルド長と副ギルド長が理解せず、主人公の学歴も嘘だと決め付けて解雇しています。
 そこで主人公は元同級生から、王宮魔術師に誘われています。
 特徴的なのは、主人公が「ブラック」な職場で酷使されていたときの経験で雑用や懸命な仕事をするのは王宮でも評価され、そうして酷使していたギルド長達は他の部下にも辞められて否定される扱いであることです。
 つまり、主人公が過酷な職場にいたことの「悪い」ところは上司の悪にして、それに耐えたことによる強さは主人公の利益になっています。

物語の災いと福の調整



2024年2月8日閲覧


 私は、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジについて、戦いつつ上司や同僚の女性と同居して家事の面倒を見るのは、切通理作さんが「案外楽しいのではないか」と『ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ』で書いているのを見て、多くの物語では「災い」と「福」があり、主人公や読み手にとって程よい「災い」と「福」だけが来ていると考えました。
 『エヴァ』で言えば、戦いの痛みや訓練などは視聴者に連動しない、娯楽として耐えやすい「災い」で、女性との同居や勝利によるストレス解消は娯楽になる「福」だとも考えられます。
 異世界転生の物語にしても、ファンタジー世界の過酷な「災い」が緩和され、「福」だけを受け取れるように展開が調整されているところがあるでしょう。
 『鋼の錬金術師』のおまけでも、主人公のエドワードの立場に、「モテたい」願望の強い弟のアルフォンスが、仮に自分がなれば「お姉さんの自宅訪問や幼なじみとのハプニング」などを楽しめると考えて、エドが重傷を負ったことを無視しているという指摘があります。少年漫画を見るときに、「災い」を軽視して「福」だけ共感したがる心理もあるようです。

 それを踏まえて、『ブラック魔道具師ギルド』は、「悪役」が利益を上げるために起こした「過重労働」という「災い」で、悪役は部下に抜け出される「罰」を受け、その「被害者」のはずの主人公はその経験を活かして「福」に転じています。
 仮に「悪役」のギルド長が、「そうして成長したのも私のおかげだろう」と言った場合、かなり反論がこじれます。

上司が部下に負担をかけることの正当化

 単なる犯罪ならともかく、上司が部下に負担の大きい仕事を「成長や経験のため」にさせること自体は必ずしも悪いとは言い切れず、自己正当化されても仕方がないところはあるはずです。少なくとも、経営者目線の『下町ロケット』TBSドラマ版にはそれがあります。『らーめん才遊記』の芹沢にも近いところがあります。
 その「上司が部下に負荷をかける」のを「災い」とだけ解釈して、「上司は災いの罰を受けろ、部下はその災いを福に転じる」というのは、主人公目線の偏りがあります。
 

 『もう働きたくないんです』では、主人公の上司のギルマスがそうして酷使したのを「試練」と正当化する場面があったものの、主人公が「欠陥」と言われる点とは別に本来「魔導師」として得るはずの給与をギルマスが中抜き、後述する表現での「搾取」をしていたとして「試練」は否定されました。

 また、後述する『味方が弱すぎて』では、上司が「部下に負担をかけた方が全体の利益やその部下の成長のためだ」と言っていたわけではありませんが、主人公のかつての仲間が戻った主人公と共闘するときに、負担をかけて「天才の俺様が認めたお前にはそれぐらい防いでもらわないとな」と主張し、それを主人公は「期待」、「信頼」と解釈しました。負担をかけるのが相手のため、あるいは全体のためだという主張は、上司や追放する側がすると悪く扱われ、主人公の仲間がすると肯定される、主人公補正とも言うべきものがあるかもしれません。

 

「優秀過ぎるから追放された」ことにしたい心理

 また、『闇ヒーラー』では、ファンタジー世界での戦うパーティーにおいて、主人公が治癒魔法をかけて、それが優秀かつ速過ぎて気付かれずに追放されました。
 説明したにもかかわらず理解されなかったというのが、「主人公の能力が優秀過ぎるから」という論理になっています。
 ここで思い出すのは、『帰ってきたウルトラマン』の郷秀樹の超能力を理解されない問題における、『怪獣使いと少年』での切通さんの解説です。
 『帰ってきたウルトラマン』では、元々地球の防衛隊員がウルトラマンと一体化する『ウルトラマン』、宇宙人のウルトラセブンが防衛隊に入る『ウルトラセブン』と異なり、一般人の郷秀樹が宇宙人のウルトラマンと一体化して、突然得た身体能力や超能力で動揺しつつ、防衛隊で働きます。
 この点に『怪獣使いと少年』では注目されています。
 郷秀樹は時折、並外れた超能力で怪獣の声などを聞き取り、それで周りの人物に理解されない、正体を隠すので説明も出来ないとして空回りして対立します。これを、切通さんは「他人と上手く関係を結べない人間が、自分は本当は天才なんだと思い込む心理に似ている」と説明しています。

 『帰ってきたウルトラマン』の1971年、『怪獣使いと少年』の1993年から数十年経過した現代でその心理が表現されたのが、『闇ヒーラー』のような、「主人公が優秀過ぎて周りに理解されない」物語かもしれません。
 しかし、怪獣や宇宙人がいても、ただの人間だと偽る主人公が超能力を使い理解されないのと、すでに怪物などが常識であるファンタジー世界で主人公の独自の能力が理解されないのは、明らかに事情が異なります。
 ウルトラマンが正体を隠すような動機でもない限り、通常は「貢献度を理解されないならば、説明しない方が悪い」はずです。
 

 

主人公の優秀さと比較することによる、周りへの批判

 また『闇ヒーラー』は個人的に、主人公が、「自分の治癒魔法はたいしたことがない」という「謙虚さ」のつもりかもしれないのですが、重傷をたやすく治すときに、苦しんでいる最中の人間に「おおげさだな」と言うので悪い印象があります。それが問題を含みます。
 『ドラゴンボール』原作のベジータに通じる、「優秀なので出来るのはかまわないが、出来ないのを責めるのが酷である」という問題です。

2024年2月8日閲覧
 

 また、『ドラゴンボール』原作のベジータは、宇宙の戦闘民族のサイヤ人の中でも「エリート」の王子として、強く勘も鋭いのですが、それを理解しないのを「馬鹿め」と一方的に言うときがあります。
 たとえば、部下のナッパが、この時点で「弱い地球の敵」とみなしていたクリリンの、エネルギーの刃で切断する気円斬に油断したとき、「避けろ」と叫び、実際にナッパも恐れる威力でした。
 しかしクリリンはこの時点で弱い扱いであり、そのクリリンの技が戦力差を覆して勝てるとは、読者も含めて予想していなかった可能性が高く、「気付くのは良いが、気付かなくても無理はないのではないか」と言えます。
 また、サイヤ人のうち「落ちこぼれ」のはずの孫悟空がベジータを超えて超サイヤ人になったあと、悟空だけ心臓病にかかり、ベジータも超サイヤ人になったとき、ベジータは悟空に「むやみに超サイヤ人になれば心臓に負担がかかるだけだ。馬鹿め」と言っています。
 けれども、超サイヤ人はベジータも「軽い興奮状態になる」と認め、のちに悟空も15代前の界王神に「超サイヤ人は体に負担がかかるから良くない」と言われて「あ、そう」と言ったので、本人には自覚しにくい可能性があり、「気付くベジータは優秀だが、悟空が気付かなくても無理はないのではないか」と考える余地があります。
 このように、独自の能力で何かが出来る、何かに気付く少数の人物が「何故出来ない、分からない」と周りを責める傾向はあります。
 『ウルトラマンティガ』で、ウルトラマンには変身しないもののそれに近い遺伝子を持つとのちに判明した隊長のイルマも、強敵が迫るときに、「分かりませんか!この異様な空気」と上司に言ったものの、それは分からなくても仕方がないのではないか、と私は考えるものでした。
 イルマにもベジータに似た、「周りに分からないことが分かるが、分からなくても仕方がないことで周りを責める」傾向があります。
 『闇ヒーラー』も踏まえますと、「主要人物が優秀だから分かる、出来るのは良いが、分からない、出来ないのは責めない」という視点が足りない物語はあります。
 「主要人物が分かるのは優れている」からといって、「分からないのは劣っている」というのは比較でしかありません。
 ベジータが優秀なので気円斬の威力や超サイヤ人の負荷に分かる、イルマが独自の能力を持つので敵の気配が分かるのは良いけれども、それが出来ない周り、悟空やナッパなどが愚劣ということにはならないはずです。
 『闇ヒーラー』で言えば、「主人公に治せるのは主人公が優秀だからであり、傷が軽いわけではないし、苦しむ人間がおおげさなのでもない」という常識が足りません。
 『帰ってきたウルトラマン』で言えば、主人公が超能力で怪獣などの存在を探知出来るのは良いとしても、通常の人間に分からないことを責めるのは筋違いですし、相手に分かるような説明が本来必要なのです。

現実味のあるかもしれない理不尽な解雇

 『追放者ギルド』は、ギルドの人間の強さを数値化出来るようになり、それで表せない貢献度、「隠れスキル」を見抜ける主人公が、追放された人間を引き入れて、数値にとらわれて追放した側が困って行く展開です。
 そのような理不尽な解雇は現実にないとも言い切れず、さらに、追い出した側が困ること自体は主人公達が何か特別なことをしたわけではなく、放置しても起きたはずなので、比較的、現実味があります。
 しかしこれにしても、「自分の待遇が悪いのは、本当は自分が優秀なのに認めない方に問題がある」という考えがあります。
 さらに、結局のところ、追放された側だけで新しい仕事を生み出せるのか、という疑問の余地はあります。

「理解されない優秀さ」を持つ人間でも出来ないこと、頼るべきこと

 追放される側とは異なりますが、周りに理解されにくい能力を持つ優秀な人物が対立を招きそうになる作品として、『ウルトラマンネクサス』があります。

 『ネクサス』では、人間を捕食して増殖するスペースビーストに立ち向かうときに、ウルトラマンや対をなす敵の「闇の巨人」になれる素質のある特別な人間を隊員にしていたらしいのですが、その中で特に優秀だったらしいのが、現副隊長の凪と、前副隊長の溝呂木でした。
 その根拠は、「ビーストがいない」と機械で探知されたときに、凪が「いる」と主張して溝呂木と共に本当にいたビーストを見つけたときです。ただし、そう探知した隊員こそ黒幕でしたが。
 いずれにせよ、凪は通常「いない」と思われたときに「いる」ことを見抜き、隊長に「戦場での資質みたいなものがある」と言われました。しかし、ここで重要なのは、「ビーストがいると凪が言えばいる」ことの必要十分条件は、「いないと凪が言えばいない」ことではないので、凪が「もういない」と言っても証明出来ず、安心して撤退出来ないことです。
 また、凪は人間の生存者が現場やビーストの体内にいることは気付かなかったらしく、その「資質」でも分からないことがあります。
 溝呂木も敵になったあと、自分が操る「闇の巨人」に人間の精神が残っていたことを見抜けませんでした。
 つまり、常人に出来ないことが出来る特殊な人物でも別に出来ないことがあり、主人公などの特殊な人物に出来ることだけで上手く行くように組み立てられた物語でない限り、「優秀な人物」だけでも出来ないことはあります。
 『ネクサス』は凪や溝呂木の能力だけで進む展開ではないので、それが浮き彫りになります。
 凪は、自分より劣ると思っていたとみられる部下の孤門が生存者を見つけたのを信じず、それで生存者も孤門も命の危機に陥ったのを、のちに孤門に上司からかばわれたにもかかわらず反省した様子がありませんでした。
 また、孤門が撃ってしまったビーストの体内の生存者にしても、その兄が溝呂木によって、「やめろ!中に妹がいる」と叫んだのを孤門も凪も聞き取れず、それで生存者を巻き込みました。孤門ばかり責められましたが、凪にしても、「自分の資質では、人間の警告を聞き取ることが出来ない」とは反省していません。
 ちなみに、凪が敵視していたウルトラマンに変身する姫矢は、「俺がもっと強ければ、救えた命があった」と苦しんでいます。
 凪や溝呂木が優秀だとしても、「自分に見えない生存者を他の人間が見つけることがある」、「目撃者の声を聞いていれば分かることがある」などの平凡な、「自分だけで出来ないことが、周りに頼れば出来る」という結論が見えていないときがあります。

 
 『ティガ』のイルマも、続編の『THE FINAL ODYSSEY』で、自分の信じるウルトラマンティガが暴走したと言えるティガダークの存在に気付いていない可能性が、続編の『ウルトラマンダイナ』やその劇場版の様子から推測され、イルマでも分からないことがあるのです。
 

 これを「追放」の物語に当てはめますと、追放する側が、追放される主人公に助けられていたとしても、される側も単独で出来ないことがあったのなら、一方的に助けていたとは言い切れないときもあり、「どちらかが完全に優っている」と言えないのなら、それは主人公も感謝すべきときがあるとも言えます。
 主人公が優秀だとしても、周りが一般的な常識で動いているだけならば、「理解されないのはしない方が悪いだけ」とも言い切れません。
 追放されたわけではないものの、ベジータやイルマにはそのような、平凡さや常識を許さない偏りがあります。
 追放される主人公の能力や行動が、する側の完全な上位互換になる論理には限界があります。

「追放されても仕方のない」、「プラスかマイナスか分からない働き」


https://x.com/hg1543io5/status/1611292510906908673?s=46 

2024年2月8日閲覧


 また、「主人公が追放されても仕方がない」という例に近いところが、『ウルトラマンギンガS』にあります。

 『ギンガS』終盤では、ウルトラシリーズによくいる「強硬派」、「タカ派」の防衛組織上官の神山が、「ウルトラマンは得体の知れない宇宙人で、いつ脅威になってもおかしくない」と言い、ウルトラマンギンガに変身するヒカルは「取り消せよ!あいつがどんな気持ちで戦っているか、知りもしないくせに!」と叫んで独房に閉じ込められましたが、神山の場合はそう言っても仕方がないと私は考えています。「追放」とは少し異なりますが、一方的に神山を批判するヒカルが処分されても仕方がないところがあります。
 というのも、『ギンガS』では人間の見る限り、もう1人の巨人、地底人のショウが変身するウルトラマンビクトリーが、最初だけとはいえ神山の部下のアリサを攻撃に巻き込んだりギンガを攻撃したりしており、それなりの事情はあってもそれをヒカルやショウが説明しておらず、「ウルトラマン同士の争いやウルトラマンの人命をかえりみない行動」で、ウルトラマンが疑われる余地があるのです。
 また、ビクトリーは自分やギンガが倒した怪獣と合体したような姿になり、ヒカルはギンガに変身するアイテムで、倒した怪獣の人形を使いその姿にもなって人類の味方になることがあります。その上、ビクトリーが最初に怪獣の能力を使ってしたのは、その怪獣を倒したギンガへの攻撃でした。
 敵対した怪獣とウルトラマンが合体したような姿になり、もう1人のウルトラマンを攻撃して、ウルトラマンに倒された怪獣が突然復活して味方になったのでは、「ウルトラマンが味方」とは信じにくくなります。
 そのような敵と味方の区別の難しい例は近年の新世代ヒーローズというウルトラシリーズに多いのですが、その初期の『ギンガS』は、説明が足りなかったと言えます。
 はじめて本物のウルトラマンが敵対したと言える『ウルトラマンガイア』では、人類に味方するウルトラマンガイアに変身する防衛隊員の我夢が、もう1人の敵とも取れる「青い巨人」との関連が知られた、実は変身していた藤宮とひそかに会っていたのを上司に知られ、説明しなかったので一時的に「追放」されました。
 『ガイア』とはまた異なりますが、『ギンガS』は、「ウルトラマンが味方にしかならない」という常識を崩しており、その常識の範囲ならまだ許される、ウルトラマンの正体を隠して説明しない主人公の行いが、「本当にウルトラマンが敵か味方か分からない」ので誤解もやむを得ない状況になっています。
 「追放」の物語でも、ゼロやマイナスに見えるけれどもプラスだった働きをする主人公が、ならば説明しなければならないのが、しなければ「誤解による追放もやむを得ない」ことになってしまうのは似ています。
 『NARUTO』では、シカマルが本来敵に使う影による拘束を、仲間のナルトが罠にかかる寸前に使って助けたことがありましたが、直ぐに説明していました。言わば「追放」の物語や『ギンガS』は、「仲間に害をなしたように見えることをしながら説明しないシカマル」のような状態でした。

 
 

『クレヨンしんちゃん』「ヘルニア国物語」の「誤解されてもやむを得ない整体」

 追放される主人公が、する側より優秀だとしても、その主人公にも出来ないことや、出来ることが裏目に出ることもあり、それを考慮して連絡や説明や周りに頼ることをしていないのなら、それはされる側が悪いことになります。
 優秀だからこそ説明する義務や、その能力の危険性を考慮する義務もあり、それが「主人公だから上手くいく」とごまかされる傾向もあります。

 

 『クレヨンしんちゃん』原作番外編「ヘルニア国物語」では、腰痛持ちの国民の多い国で、人の体をねじって「バキボキ」して楽しんでいた「魔物ドエス」を封印したあと腰痛が広まったのを「たたり」と解釈していました。
 そのあと別の敵に襲われたときに、王子がドエスの封印を解除して、謝罪しつつ助けを求めたのですが、ドエスは「知ったことか!」と王子や国民の体をねじっただけでした。
 しかしそれで王子や国民達は腰痛を治して敵を追い払い、ドエスは「整体の精」だったと判明して和解しました。

 これは、『味方が弱すぎて』にも通じる、「追放した側が、された側の貢献がなくなり困るのを、された側の不正のせいだと加えて逆恨みする」とも言えます。

 しかし、ドエスは自分の正体を説明せず、それに関係ない国の危機でも「知ったことか!」と言っています。
 それで「治していた」としても、やはり説明しない方が悪いという論理は残ります。
 この「一見ゼロあるいはマイナスの働きをしていたのが、実はプラスの働きをしていたのが理解されず追放されたあと、した側が困るのを逆恨みする」という構図、そして「追放される側が自分のプラスを説明しないのが責められない」非合理性が、まさに「追放もの」に通じます。

賃金と失業率とワーキング・プアから、「追放」されて「転職したいのではないか」という推測

 また、私は個人的に、近年の物語の「追放された側が新しい場所で幸せになり、した側は不足で失敗する」という展開について、現代日本の2つの統計から考えることがあります。賃金と失業率です。

 池上彰さんの番組でしばしば説明されますが、海外と比べて現代日本は賃金が上がらないものの、失業率は低いそうです。しかしそれは善し悪し、トレードオフとも言い切れません。

 フィリップス曲線という、失業率と物価の関連を扱う概念はありますが、それとの関連はまだ分かりません。
 しかし、その2つの統計の通りならば、現代日本は低賃金でも働く、いわゆるワーキング・プアが多いことになります。働けているのなら良いだろう、とは言えず、むしろ二重苦かもしれません。
 また、日本国憲法には「勤労の義務」が国民にありますが、『大人のための社会科』によると、これは外国では「労働」であり、勤労という概念は珍しいようです。その意味で日本人の多くに働く美徳があるとすれば、働きたくないわけではないのかもしれません。
 しかしそれは、低賃金などの現状に不満がありつつ、失業するのは少数になるので怖いという心理があり、もっと待遇の良い別の職場で働きたいのが、現代日本人の本音かもしれません。
 その「転職したい」、「しかしその失業のリスクは取りたくない」心理から、「一方的に追放された」展開にしてリスクを元の職場に取らせ、なおかつ自分を苦しめた職場に痛い思いをしてほしい、自分が低賃金だったのは役に立たなかったわけではないことにしたいために、「自分は縁の下の力持ちだったのに周りが理解してくれなかった。だから理解しなかった方は没落する」という展開を好むのかもしれません。
 そこに、転職したいわけではない『帰ってきたウルトラマン』などの物語の対立から切通さんが感じた「認められない自分は本当は天才なんだ」と思いたがる心理が加わっているとも考えられます。

マルクスの「経営者による労働者への搾取」と「追放」

 また、マルクスの『資本論』から始まる経済学の、労働者、従業員の働きの利益を資本家、経営者が「搾取」しているという理論も、「追放」の物語に関係している可能性があります。
 現代日本の職場の多くの問題が低賃金だと仮定して、それがマルクスの言う通りならば、経営者こそ労働者の真の働きを奪い取る諸悪の根源であり加害者となり、経営者自身は働きもせずに地位だけで奪っていることになります。
 それが『もう働きたくないんです』のギルマスの主人公にした「中抜き」なのでしょうが、この作品では他の労働者も主人公の働きを奪っていました。
 『味方が弱すぎて』は、苦しい待遇であるものの、賃金は高く、病気の親のために稼がざるを得なかったので耐えていたのがあるとき追放されたので、こちらは追放した王子がなかなか批判されない身分制度の問題ですが。
 『もう働きたくないんです』にしても、資本主義の「中抜き」や「搾取」だけでなく、権力を持つ子爵や元ギルマスなどの依頼ばかり受けざるを得ずに一般人の依頼を受けられなかったなど、資本主義というより身分制度や縁故の問題もみられます。
 しかし、マルクスの「労働者が低賃金なのは、働きの利益を経営者が奪うからだ」という図式が分かりやすく、それが「追放する側が主人公の利益を奪っている」という図式にはなっているかもしれません。

マルクスの間違いと「追放」の関連

 ここで、私の調べた経済の知識から、マルクスの間違いと、現代日本の低賃金の原因の可能性を考察します。
 まず、井上純一さんの『キミのお金はどこに消えるのか』によると、マルクスの搾取、労働者が受け取る給料以上に働く剰余価値、剰余労働は、数学の苦手だったので「多分ある」としたマルクス以後、別の人間が計算して「確かにあったが、あらゆる商取引にあったので、経営者だけが労働者から奪うわけではない」となったそうです。
 監修の飯田泰之さんも『脱貧困の経済学』で、「労働者の働きだけで企業の仕事が成り立つのではなく、仕入れや設備投資などもある」という趣旨の主張をしています。
 また、マルクスは労働の分だけ商品に価値がある、リンゴとお金が交換出来るのは等しい量の労働が込められているからだ、ダイヤモンドが高いのは掘り出す多数の労働が込められているからだ、という労働価値説を主張したようです。
 しかし『キミのお金はどこに消えるのか』では、「労働に限らず、絶対的な価値の源を探すのは害悪だ」という積極的主観価値説を紹介し、「リンゴとお金が交換出来るのは、リンゴよりお金が大事な人と、逆の人がいるからで、価値の源は価値観の違いである。絶対的な価値の基準や源はない」という主張になっています。
 つまり、労働により商品の価値が決まるのではなく、買う側の主観が価値を決めるというのが重要になります。
 その意味で、「追放」の物語で主人公の「労働者」の働きだけで全てが決まっていたのか、追放する側、たとえばパーティーメンバーは奪うだけだったのかも疑わしくなります。追放された側の労働だけで独立して成り立つのか、という疑問の余地があります。
 ちなみに、『もう働きたくないんです』は、主人公の労働の能力が、客観的に表しやすい「使用価値」と、相手の主観で決まる「交換価値」というマルクスの理論から参考になるところがあります。

現代日本の格差の原因を税制度から考える

 ここで、マルクスの理論とは別に、現代日本の低賃金の原因の考察を、『キミのお金はどこに消えるのか』シリーズや飯田泰之さんの書籍から、税制度を踏まえて説明します。
 まず、積極財政の主張において、「税は財源ではない」という主張もありますが、現代日本の信用貨幣の場合、国に属する中央銀行が通貨発行しており、税は民間から国に回収しているに過ぎず、元々の源は国の通貨発行だとされます。
 税の役割が財源だとしても、他に格差を縮める所得再分配が1つ、好況なら増税して不況なら減税して景気を安定させる経済の安定化が2つ、たばこ税などの特定の経済活動にブレーキをかける政策の実現が3つだというのは、幾つかの税金の書籍にあります。
 1、2から、累進課税が良いとされ、累進性のない消費税は悪いとされ、また、3から、消費にブレーキをかける消費税は景気を悪くするとされます。
 また、インフレが進み過ぎると通貨の価値が下がり信用がなくなるハイパーインフレになるので、それを防ぐ作用も税金にはあるとされます。しかし『キミのお金はどこに消えるのか』の時点で日本はデフレだったので、逆に減税が重要視されました。
 さらに、通貨の信用は、それで税金を納めなければならないから保たれるという理論もあり、インフレで通貨の信用が下がるなら増税の必要もあるものの、デフレで通貨が希少になり価値が上がるときには税は下げるべきという主張もあります。
 この2点から、消費減税を『キミのお金はどこに消えるのか』で主張していました。
 さらに、『こんなに危ない!?消費増税』では、国債やプライマリー・バランス、「政府の赤字は民間の黒字」を巡り似た主張をしつつ、「現代日本は消費増税の代わりに、大企業への法人税を減らしたので税収がほとんど変わっていない」、「現代日本は大企業にばかり有利な税制度になっている」とあります。
 飯田泰之さんも、『脱貧困の経済学』で似た主張をしています。
 つまり、現代日本の格差や低賃金の原因として私は、累進性を高く出来る、本来所得再分配に役立つ大企業への法人税を下げて、累進性がなく低所得者に負担のかかる消費税を上げたことを挙げます。
 マルクスの経営者が直接労働者の出した利益を奪っているという主張はともかく、一部の大企業の経営者や株主に有利な法人減税と、多くの低所得者に不利な消費増税が格差を広げたと私も考えます。

マルクスの理論における国家の欠如

 また、マルクスは、経済成長や格差是正のために国がすべきことを想定していなかった可能性があります。
 『キミのお金はどこに消えるのか』、『こんなに危ない!?消費増税』などの主張とはかなり異なるとみられますが、佐藤優さんは『いま生きる「資本論」』で、「マルクスの理論には税金の話がない」と書いています。
 また、井上さんの『逆資本論』では、「マルクスの時代まで世界はほぼずっとデフレだったので、通貨の増えるインフレで経営者も労働者も得をする世界を知らなかった」、「デフレの世界では全体のお金が増えないので、奪い合いになる」、「20年間デフレである日本にいる斎藤幸平さんが、マルクスの搾取を信じるのは仕方がない」とあります。
 また、井上さんは「国債による通貨発行でなければデフレから脱却は出来ない」と書いています。
 つまり、マルクスの理論は通貨発行や累進課税の概念にまで言及していなかったのでしょう。
 井上さんは、「市場原理にだけ任せると、格差は広がる」とも書いています。

マルクスの理論と通貨発行と「追放」

 つまり、国が格差是正のための累進課税、デフレ脱却のための通貨発行をすべきなのを現代日本ではしないからこそ、現代日本の低賃金や格差が広がり、それをデフレの時代のお金の奪い合いによるマルクスの理論が日本で再び信じられるようになったと言えます。
 そこに、「追放」の物語は、「主人公の労働者の出した利益を、経営者に当たるパーティーリーダーなどが奪っている」という、目の前の人間の「搾取」の主張を生み出したのかもしれません。
 さらに、低賃金でも多くが働く日本特有の状況から、「転職したいがリスクは取りたくない」心理で、「一方的に元の職場が追放した」流れにして、リスクを追放した側に押し付け、主人公は幸せになる物語になるのかもしれません。

まとめ

 まとめるのが難しいのですが、「優秀さによる貢献を理解されず追放され、された主人公は新しい職場を見つけ成功し、した側は没落する」という物語では、まず、「追放した側の正当化や論理も、主人公の役に立ったなら認めなければならない」、「主人公に災いが起きても、それが福に転じたならば追放した側に感謝すべきときもある」、「優秀だとしても、説明する義務や、裏目に出て失敗する危険を考える義務はあり、主人公にばかり都合良く解釈してはならない」、「追放された側だけで独立出来るとは限らない」、「主人公達がプラスのつもりでしたことがゼロやマイナスに解釈されるなら、ウルトラマンも含めて説明する必要のあるときがある」、「追放される物語は、賃金と失業率の両方が低い現代日本で、転職したいがリスクを取りたくないので、追放されたい心理の現れなのではないか」、「低賃金の状況をマルクスの搾取の理論から、経営者など目の前の人間のせいにしたいのではないか」、「マルクスの理論の間違いも踏まえて、現代日本の累進課税の低さと消費税の高さに怒るべきである」というのが私の結論です。


参考にした物語や漫画

特撮テレビドラマ

樋口祐三ほか(監督),金城哲夫ほか(脚本),1966-1967,『ウルトラマン』,TBS系列(放映局)
野長瀬三摩地ほか(監督),上原正三ほか(脚本),1967 -1968(放映期間),『ウルトラセブン』,TBS系列(放映局)
本多猪四郎ほか(監督),上原正三ほか(脚本),1971,『帰ってきたウルトラマン』,TBS系列
村石宏實ほか(監督),長谷川圭一(脚本),1996 -1997,『ウルトラマンティガ』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),川上英幸ほか(脚本),1997 -1998(放映期間),『ウルトラマンダイナ』,TBS系列(放映局)
根本実樹ほか(監督),武上純希ほか(脚本),1998 -1999(放映期間),『ウルトラマンガイア』,TBS系列(放映局)
小中和哉ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2004 -2005,『ウルトラマンネクサス』,TBS系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2014 (放映期間),『ウルトラマンギンガS』,テレビ東京系列(放映局)

漫画

臼井儀人,1992-2010(発行期間),『クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)
荒川弘(作),2002-2010(発行),『鋼の錬金術師』,スクウェア・エニックス(出版社)
鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
久部緑郎(作),河合単(画),2010-2014(発行期間),『らーめん才遊記』,小学館(出版社)
岸本斉史,1999-2015,『NARUTO』,集英社(出版社)
井上純一/著,飯田泰之/監修,2018,『キミのお金はどこに消えるのか』,KADOKAWA
井上純一/著,アル・シャード/企画協力,2019,『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』,KADOKAWA
井上純一(著),アル・シャード(監修),2021,『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』,KADOKAWA
井上純一,2023,『逆資本論』,星海社
消費増税反対botちゃん(著),藤井聡(監修),2019,『こんなに危ない!?消費増税』,ビジネス社
原作/縛炎,漫画/村上メイシ,2022-(未完),『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』,スクウェア・エニックス
十乃壱天,菱川さかく,だぶ竜,2022-,『一瞬で治療していたのに役立たずと追放された天才治癒師、闇ヒーラーとして楽しく生きる』,SBクリエイティブ
葉月秋水,necomi,鳥飼やすゆき,2022-,『ブラック魔道具師ギルドを追放された私、王宮魔術師として拾われる〜ホワイトな宮廷で、幸せな新生活を始めます!』,スクウェア・エニックス
門司雪,アルト,夕藤,2021-,『味方が弱すぎて補助魔法に徹していた宮廷魔法師、追放されて最強を目指す』,講談社
荒木佑輔,メソポたみあ,U助,2022-,『ようこそ『追放者ギルド』へ〜無能なSランクパーティーがどんどん有能な冒険者を追放するので、最弱を集めて最強ギルドを創ります』,KADOKAWA

テレビアニメ

庵野秀明(監督),薩川昭夫ほか(脚本),GAINAX(原作),1995年10月4日-1996年3月27日(放映期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,テレビ東京系列(放映局)

特撮映画

小中和哉(監督),長谷川圭一(脚本),1998,『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』,松竹(配給)
村石宏實(監督),長谷川圭一(脚本),2000,『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』,ソニー・ピクチャーズエンタテイメント(配給)

テレビドラマ

伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),池井戸潤(原作),2015,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)

参考文献

切通理作,2000,『怪獣使いと少年』,宝島社文庫
切通理作(編・著),1997,『ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ』,三一書房
飯田泰之/著,雨宮処凛/著,2012,『脱貧困の経済学』,筑摩書房
佐藤優,2014,『いま生きる「資本論」』,新潮社
井出英策ほか,2017,『大人のための社会科 未来を語るために』,有斐閣
川越敏司,2017,『ビジュアル 図でわかる経済学』,日経文庫

 

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