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『カメラを止めるな!』と『アメリカの夜』 ―映画への愛は世界共通

徹夜明け、TOHOシネマズ日比谷で『カメラを止めるな!』(上田慎一郎監督)を見てきました。評判通り、寝不足を吹き飛ばす、面白さです。

ちょうど予告が始まったところ、希望の席に滑り込み、あとは寝落ちしないことを祈るばかり。(以下、ネタバレあり、未見の方注意)

映画はゾンビフィルムの撮影風景から始まります。ん、なんだこれは。何かユルい学生映画のような乗り。

私は、手持ちカメラ撮影が苦手なのですが、それを割引ても、なんだか映像もテンポも変なところがある。

もう、寝そう、寝るな私…。必死に睡魔と戦い始めた頃、ゾンビ化した本物ゾンビ(カメラマン役俳優細田学/細井学)が出現。それでも監督(冴えないディレクター日暮隆之/濱津隆之)は撮影を止めない。混乱がどんどん加速してくる。

それからです。私も睡魔でなく、本編に吸い込まれ、主演女優(アイドル女優松本逢花/秋山ゆずき)がカメラを見上げて立ち尽くす頃、すっかり眠気も吹き飛びました。

一転、ネタバレの後半。ワンテイクのゾンビフィルム制作とういう無茶な依頼から、始まります。ここからは、笑いの連続。ゾンビフィルム完成に向けて、懸命の映画愛の作業が始まります。

なんといっても、このゾンビでワンテイクのアイデアが、秀逸。

この映画の着想は、舞台(前半殺人サスペン、後半その舞台裏)から得たそうです。それが、前半37分のゾンビフィルムのワンテイクにたどり着いた時、その気持ちや如何に。

ワンテイクとは、ワンカット・長回しとも言われますが、ワンシーンを途中でカットすることなく、ひとつながりで撮影すること。それがフィルムまるごとでは、暗転や幕間のない一幕の舞台のようですが、その見せ方はまさに映画的です。

観客は、カメラの視点をずっと追うことになるので、まるでドラマの中に紛れ込むような気持ちになり、感情移入しやすい、といわれてます。

そんな制作裏側の後半が、面白くない訳ありません。前半劇中の何かユルい展開も、奇妙な映像やテンポも、全てが逆転していく。まるでオセロで、ほぼ黒で埋まった盤面が、どんどん白に裏返り、やがて真っ白になっていくようです。

低予算ゆえの力強さ?さえ感じる、すべては計算された絶妙な脚本、やるなお主!の確信犯的手法にやられました。本当に前半、寝落ちしないでよかった。

お金がなくても、アイデア、才能、努力、愛、精神力があれば何とかなる…ものではないことは、周知のことです。

それでも究極の低予算を凌駕する力、キセキは起こる。気まぐれだとしても映画の神と相思相愛な作品は、生まれるのです。

映画愛に支えられた後半を見て笑いながら、私の脳内には、トリュフォー監督の『アメリカの夜』が駆け巡る。ああ、見たい…。 

この作品を見たことのある方なら、判ってくれる、かな。映画撮影を描く傑作は色々ありますが、私の中でのベストワンです。

次の日の朝、六本木けやき通りのTSUTAYAに飛び込み『アメリカの夜 特別版』(1973年仏・フランソワ・トリュフォー監督)をレンタル(以下DVDの解説、インタヴュー等を参考にしてます)。

ついでに『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『パラノーマル・アクティビティ』『クローバーフィールド』と低予算、手持ちカメラでヒットした作品群を借りてきました。

久しぶりにみた『アメリカの夜』。何度見ても「映画っていいよね」という気持ちが蘇ります。人が死んでも、映画は進む…話ではありますが…。

冒頭、街の雑踏のなか、メトロから出てきた男が、反対方向から歩いてきた中年紳士の頬をいきなり、打つ。そこで「カット!」の声。トリュフォー自身が演じる監督の顔のアップ。カメラが引くと、赤いカメラクレーンが、そこが撮影現場であることを印象づけます。

トリュフォーは、実際には高いカメラクレーンは使わないそうですが、映画のメイキングをみせながら、そこに集う、役者、スタッフ、映画にかかわる人たちの悲喜こもごもを軽快に描きます。

カメラがセットに向けられるとき、スタッフたちはカメラの死角で、セットのたつ野っ原で悪戦苦闘を展開します。その映画に魅入られた人たちの姿、トリュフォーの映画愛に満ちた優しい眼差しに、全編が包まれる。

『カメラを止めるな!』のクレーン撮影にこだわる後半、カメラが上空高くあがあるラストなど、勝手に『アメリカの夜』へのオマージュを感じます。

『アメリカの夜』のDVDの解説では、低予算ながら世界中でヒットし、トリュフォーの停滞時期を脱するきっかけに。以降、中期の作品は世界規模でヒットするようになったとも。

また作品のヒントは、ヒッチコックの言葉で「陳腐な映画制作をテーマに、登場人物のドラマを絡めると面白い作品になる」ではないかと。トリュフォーはそれを覚えていたのではないかというのですが…。

トリュフォーは、ヒッチコックにインタビューをするかたちで、『映画術』を共著として出版(1966年仏、1981年日本、1990年改定日本)するほど、ヒッチコックを敬愛しています。それだけ、アメリカ映画、商業的成功も意識していたと思われます。

恋人がスタントマンと駆け落ちして、だだをこねる主演男優に、監督は諭(さと)します。「私生活の悩みは誰にもある。映画は私生活と違ってよどみなく進む…君や私のような者には幸福は仕事にしかない」

『大人は判ってくれない』で鮮烈な長編映画デビューして、ヌーヴェルヴァーグの旗手ともいわれ、「映画制作にすべてを捧げてる」トリュフォーほどの監督でも、停滞気味だと低予算な現実…。映画の神、創作の神さまは、残酷な神でもありますね。

「映画への愛は世界共通」というトリュフォーの言葉は、『アメリカの夜』で全米映画批評家協会の1974年作品・監督賞に選ばれたときのもの。前1973年には、アカデミー賞外国映画賞も受賞してしてます。

受賞やアメリカでの知名度のおかげで、スティーヴン・スピルバーグ監督の『未知との遭遇』(1977年米)への俳優としての出演にも繋がります。毎年のように自分の映画を撮るためには、こういうセルフマネジメントな活動も必要。ハリウッドで活躍する監督の仕事ぶりを見たかったこともあるでしょう。

トリュフォーは、死を恐れていてといいます。それはやりたい映画が山ほどあり、取捨選択しないと、「生」が追いつかない。重要でないことに時間を取られる恐怖があったそうです。

その予感は的中したのか、1984年52歳の若さで亡くなります。溢れ出る才能を活かし切る、というのも大変なことですね。

トリュフォーのハリウッドスタイルの作品は『華氏451』(1966年仏・製作イギリス)だけで、『俺たちの明日はない』(1967年米/アサー・ペン監督)の監督を依頼されたり、『クレーマー、クレーマー』(1979年米/ロバート・ベントン監督)に乗り気だったそうです。

『華氏451』はイギリスの製作で、英語のできないトリュフォーはスタッフとコミュニケーションが取れず、主演男優との確執もあって、撮影がうまく進まない。まさに『アメリカの夜』的な話です。

やはり一度は、ハリウッドスタイルで、『アメリカの夜』のような、トリュフォーなりの成功、作品の質と商業的成功の両立を収めてみたかったのかもしれません。

「次は失敗しない」というか、成功するまで、自分のなかでバージョンアップするのが大きな才能のある方の特徴。その膨大な(毎日、バケツで捨てるような)才能(または思いつきかもしれぬ)量こそに、質が伴なっていくのかな。

確かに晩年のトリュフォーは、ほぼ毎年作品を発表し、確実に何かをすすめていた、めざしていたようにも感じます。多くの傑作を残してくれたけど、その可能性を思うと彼の死は、やはり早すぎた。残念です。

私にとって『華氏451』は失敗作ではなく、書物を言葉で紡ぎ、伝える、とても官能的な物語。大、大、大好きな作品で、見るたびに刹那さが増していきます。

「年をとるにつれ、トリュフォーに共感するようになった。『アメリカの夜』を見たのは20代と60代の時、名作は何度見ても新たな発見があるんだ。魅力も決してあせない。名作は永遠なんだ」

DVDのインタヴューで、ブライアン・デ・パルマが語る言葉に、私も!であります。無為徒食で長生きしそうな予感が辛い私ですが、生きてる間は、この胸に、トリュフォーがある。私のなかでは永遠なのは確かです。

「映画への愛は世界共通」ですから、『カメラを止めるな!』も、見事な脚本は、もちろん押しですが、言葉がなくても、言葉の壁を超えて、世界に愛さる条件も充分。

ご覧になって溢れる映画愛が気に入った方は、ぜひ古いけど『映画に愛を込めて アメリカの夜』(正式名称らしい)も見てみてね。

ジャクリーン・ビセットが綺麗です。今や名女優のナタリー・バイも初々しい…って知らないかあ…。

無為徒食に愛の手を