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2022−23年 Asae chanとの再会、それは特別な何か その1

 辞書とは、語彙を収録した書籍のことであり、語彙の収録順や用例の掲載、意味の解説などが行われる。「辞書編集」とは、辞書を編集すること。編集者は、そのような辞書を作成するために、語彙の収集や編集作業に従事する。辞書には、一般的な国語辞典や英和辞典、専門用語の辞典など、様々な種類がある。辞書編集者は、それらの辞書を精密に編集し、正確な情報を収録することで、多くの人々に利用される貴重な書籍を作り出していく。自分の研究が関係した、JACET英語辞書研究会での発表はまさに僕にとって重要体験だった。その狭間にはAsaeちゃんとの2度の再会があった。

 前回から、ずいぶんと時間が経ち、今日に至ってしまった。とはいっても、別段、サボっていたわけじゃなく、ただ忙しさのあまり、noteに綴るのを見送ってしまった、という感じだ。

 実は、ここ1年ほどで自分の周りに大きな変化の波が押し寄せたと言うことから話を進めよう。広島大学大学院 博士課程後期での自分の研究は、「語義の展開を生かした海事英語辞書の製作」である。この、海事英語については前回の記事で紹介しているので、詳説は割愛する。ただ、この研究を続けていくことで、重要な人物と再会してしまったことは、これから先の人生、いや、研究生活に大きな影響を持っている。2022年11月のことだ。University of Wisconsin Stevens Point(以下、UWSP)の記事で紹介したと思うが、Asaeちゃんから、広島出張の連絡がある日、突然入った。今、彼女は、シンクタンクの仕事をフリーランスで行っている。その関係で、広島に来ることが決まったそう。「会えるかって?」"Why not?" 当然OKだよ。彼女はクライアントとの業務終了後、八丁堀に来る。新鮮な魚介類が食べたいらしい。このあたりの瀬戸内は、やはり海の幸三昧のイメージがあるようで、彼女の希望からもそれは見て取れる。僕は、仕事を早めに切り上げ、福山から新幹線に乗って広島へ。駅を降りると、小さな花屋が露天を開いている。メッセージには「久しぶりで探せないかもしれないし。胸に薔薇でも指していこうか笑笑」などと30年経っても相変わらず小粋なAsaeちゃんである。僕は、その花屋で赤い薔薇を1束買った。彼女は広島が20年ぶりくらいで、前回は家族旅行。その広島には僕が住んでいる。夜の八丁堀はCovid-19にもかかわらず、人で溢れかえっていた。スマホのナビを頼りに、約束の場所へと足を運ぶ。実は、昨晩、「足もとが悪いので気をつけて」とメッセージを送った。決まって彼女は、「ありがとう。」前の晩は雨だったのだ。さっき購入した赤い薔薇はバッグの中に折れないように仕舞い込んである。彼女のFacebook投稿には部屋に生けたセンス抜群の花が登場する。それはまるで沈黙の空間で凛とした美しさがあった。

Asae chanと広島・八丁堀にて
1992年 UWSP 左が筆者、中央がAsae chan

 先に店に着いたのは僕であった。少し心配性な自分は、何事かにつけて、早く早く行動しがちである。それは、相手に先を越され、待たせることへのちょっとした罪悪感から来るものだ。店に着くと、早速、店員さんがやってきた。「先に始められますか」「いいえ、待ちます」Asaeちゃんから連絡が入る。「今、向かってま~す」スマホなどない昔は、人と合う約束をしても、相手の状況などわからず仕舞いだ。今は、LINEやmessengerなど便利なツールで世の中は溢れかえっている。

 その間のおよそ5分くらいはなぜかやけに長く感じた。それはまるで1992年以来、30年の月日という時間の織物に張り巡らされた一本一本の糸がはずされていくかの如く、一秒一秒が刻まれていった。店の2階席は忘年会等で混んでいた。ドアが次から次へと開いて、団体客の騒々しさが目と耳をキャッチする。スマホをみて、おしぼりを手につかみ、ドアが静かに開いた。一人の客だ。「あら、全然変わってないわね。Hello!」その瞬間、まぶたに焼き付いたのは、紛れもなくAsaeちゃんだった。思わず、つぶやいた言葉がある。「可愛い!!」
僕の脳裏には、1992年夏、UWSPのドミトリーでビールをおねだりしてきたAsaeちゃんだった。あのときの、「可愛い」と時を経ての「可愛い!」は時意味を異にする。

 テーブル席に座った僕よりも年下のAsaeちゃんは、当然ながら成熟した女性だ。僕らは生ビールを注文し、お通しを嗜んだ。「元気だった?」これは開口一番のセリフ。「もちろん!!」1992年に帰国して以来、僕は試練の毎日を過ごしてきた。家業の倒産に追い込まれた実家を支えながら、教員になる資格を取るべく、通信制の大学へ入学。地元の高校に勤務して、後結婚。2人の子どもが生まれた。彼等も社会人、そして大学生に。50歳を迎えた頃から、自分のセカンドライフ・サイクルを意識し始めたのだ。インドの仏教哲学に「林住期」というものがある。これは、子どもたちの自立を期に、男は「再び旅に出る」という意味を持つのだ。要するに、ある程度の纏まったお金を用意し、その後の有意義で実りある人生を謳歌しよう、と解釈出来はしないか。

 魚のコース料理は大変美味だった。刺身の盛り合わせに始まり、牡蠣の浜焼きやお茶漬けなどは次々と運ばれてくる。Asaeちゃんは、包み隠しのない、素直な女性だ。「美味しい!」と連呼し、幸せそうに舌鼓を打つ。
もっぱらの話題は、やはりアメリカ留学時代のことであった。当然、そこには登場人物も名をはせる。Paul Kei MatsudaやLi Wenを始め、MoisesやCarlos、Mauricioなど、今や、Facebookでも名前を確認できるメンバーだ。そんな当時のことは勿論だが、お互いのお互いの人生を振り返って、僕らは話した。時には笑い、時には静かに、そして時にはお互いの目を見つめ合って。


ニューヨーク 5番街の夕日

 Asaeちゃんは、UWSPをあとにしてニューヨークへ移った。そこで、学生をしたり、商社にも勤務した。この約5年間が彼女の人生に後々影響を与えたようだ。「Akiraさん、私ね。UWでの記憶は殆ど無いの」彼女は時折、うつむいてつぶやく。1992年、僕は帰国した。学校の体制が変化し、残った学生や教員もその変化に咽まれた。時々、学友とは手紙、時には電話で状況を報告しあっていた。東京で生まれ育った彼女にとっては,都会はとにかく便利で刺激に溢れ、可能性に満ちているのだ。

 ニューヨークへ移ってからの彼女は、人との出会いに恵まれたこともあり、都会での生活を満喫したようだ。僕は、ちょうどその頃、教員の資格を通信で取得している真っ最中だった。これまでの記事で紹介したが、レポートを書いては科目最終試験を受ける日々だった。この間、UWSPで出会った仲間たちのことを一日として忘れたことはなかった。本当はアメリカに残って、大学院まで進みたかったが、状況が許さないことをくよくよしても仕方がなかった。前に進むしか無かった。

 1994年、『LEON』という映画が公開された。舞台はニューヨークだ。この2年前に僕はその街を訪れていた。ブルックリンやソーホーを始め、エンパイヤステートビルディングやタイムズスクエアには来る日も来る日も足を伸ばした。そういった土地勘があの映画を観る気持ちを際立たせた。自分の意志とは逆方向に向かうとき、最も自分を助けてくれるのは、あのときの情景だった。UWSPで出会った素晴らしい仲間とそこに暮らす中西部の人々。更に、あの美しい真夏の湖畔に薫る涼しい夕風。そんなUWSPは僕にとって最高の場所だった。

 今、時間を経て奇跡の再会を果たしたAsaeちゃんはテーブルを挟んで自分の真向かいに座っている。彼女の顔には常に微笑みがある。それは、自分の努力で築き上げてきた強さであると感じた。会社勤めや通信制の大学院でMBAを取得し、自分の能力を最大限に発揮して生きてきた輝きがその瞳から溢れていた。「Akiraさん、私ね…」決まって彼女が会話を切り出すときはこう言う。その内容は、自分がこれまでの人生で感じてきたことや心に深く刻み込んできたことが裏打ちされた内容だった。僕は、彼女が話し始めると、静かに聞き入った。彼女のことばは僕の心に一つ一つ刻み込まれた。

 30年という時間を一気に縮めたのは、やはり、キャンパスでの思い出だった。「Akiraさん、あの可愛さ微塵もない19歳の私とよく遊んでくれたね?いつも物欲しそうにビールをおねだりしたの。」本人曰く、「当時の私は、全く可愛げがなかった」なんていうが、全くそんなことはない。僕からすると、むしろ周りの日本人の女の子たちよりもずっとナチュラルで、話しやすかった。彼女は、ほぼ毎日、ビールを貰いに来た。そして「ありがとう。」一言いって嬉しそうに部屋に戻る。あるときは、「Ozack一緒に食べようよ!」と誘ってくれた。彼女の部屋に招かれたのだが、殆どAsaeちゃんが食べていた。

 今、彼女は、日本酒をじっくりと味わいながら、美味しそうに呑む。30年前はビールだったのが、年令を重ねて趣味・趣向が変わるのは頷ける。広島へ出張の際にも、地元の酒造メーカーに立ち寄っていた。日本酒がある一種のブームなところもあるが、彼女にはそういった「乗っかる」的なものがない。あくまでも自然体。そういった雰囲気に僕も落ち着いていた。

 美味しいものを味わって、時間は10時過ぎ。「僕らアメリカ留学依頼、30年ぶりの再開なんです!」と自己紹介すると、ある女性店員は、「まあ!素敵ですね!!最高の再会だわ!!!」と喜びを全身で表現してくれた。支払いを済ませて、帰路につくことにした。二人で自撮りし、路面電車の八丁堀を目指そうとした。「私、Akiraさんを送っていくわ」人思いで、心優しい彼女である。夜の繁華街は人で賑わっている。僕ら二人はその雑踏の中を電停めざして歩いていった。都会の夜は寒々しくも明るいものだ。

ここで、辞書編集者について一筆しておく。自分が目指しているものは次の通り。

辞書編集者の仕事の魅力とは?:辞書編集者は、様々な種類の辞書を作成するために語彙の収集や編集作業に従事します。その仕事の魅力について、正確な情報の収録や多くの人々に利用される貴重な書籍を作り出すことで何が魅力なのかを探求する記事を書くことが可能。

「辞書編集とは何を学べるのか?」:辞書編集者は、語彙の収集や編集作業を通じて様々な知識やスキルを習得。例えば辞書作成における語彙の収集方法や編集の基礎知識、文章の構成や表現の工夫など、辞書編集を通じて学べることについて詳細に解説する記事を書くことができる。

「辞書編集者としてのキャリアパスとは?」:辞書編集者の仕事は、辞書の編集だけでなく、様々な関連業務も含まれる。例えば、辞書の企画や編集チームのリーダーシップなど、辞書編集者としてのキャリアパスについて具体的に紹介する記事を書くことができるのだ。

「辞書編集者の視点から見た、異なる種類の辞書について」:一般的な国語辞典や英和辞典、専門用語の辞典など、辞書にはさまざまな種類があ辞書辞書書編集者の視点から、各種辞書の特徴や編集のポイントについて解説する記事を書ける。

「辞書編集者のエピソード:JACET英語辞書研究会での発表との関連」:辞書編集者としての経験や関わったプロジェクトについてのエピソードを紹介し、特にJACET英語辞書研究会での発表との関連を探る記事を書くことも可能。

後日、僕は,JACET英語辞書研究会において発表を実施した。

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