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朴裕河氏と「帝国の慰安婦」を巡る対立と混迷について:「和解」に向けた道程再び

「帝国の慰安婦」を巡る話をするのも、「何を今更」感が満載な気がするが、数年前にフェイスブックでこの問題について長い投稿をしてからでも既に数年経っているので、改めて今現在、私が考えるところを虚心坦懐に述べてみることにしよう。

さて、どこから説き起こせばいいか迷うほどに、朴裕河氏とその著書「帝国の慰安婦」を巡ってはこれまでも、そして今現在も批判と非難の複雑な応酬合戦が続いているが、今の日本の右派・歴史捏造主義勢力は検討する価値もないので脇にのけておくとして、大きく問題が継続しているのは主に日本・韓国での左派勢力と朴裕河氏の対立であろうと考える。

まず大前提として、朴裕河氏は左派に立ち位置を置く研究者ではない。彼女が書いた文学関連の著作(そもそも朴氏は文学研究者なのでこちらが本業)を読めば分かるが、彼女の価値観は総じて中道右派あたり~大まかには保守派の一人と見ていいと私は考えている(それがダメだという話では全くない)。

そうした朴氏が様々な資料を引用・解釈して、アジア・太平洋戦争時の従軍慰安婦制度の在り様について論じた、あるいはその実相を描き出したのが「帝国の慰安婦」という著作だろう。彼女は歴史学や社会学研究者ではないし、この著作はそもそも純然たる学術書ではない。そして、彼女がここで描き出した一側面は、従軍慰安婦制度の全体像を考える上ではかなり特殊な局面であり、決してこの問題の根幹を成すものではない。なので、この著作が出された当時の主に左派論陣からの異常な反発・反論は私から見るといかにも「過剰反応」に過ぎず、今日的に例えると、「新型コロナワクチン打った後でのアナフィラキシー症状」のようにも見えてしまう。

そして大事なのは、彼女がこの著作で提示した「慰安婦とされた女性と、帝国陸軍に徴兵された(若い)日本軍兵士たちは、共に帝国主義というシステムによってその人生や人権を踏みにじられた被害者である」という構図である。「同志的関係」という表現が適切であったかどうかはともかく、そうした視点自体は、歴史的事象を複合的・総体的に振り返る場合に充分に有効な視点である。

しかし、多くの左派論陣(特に在日コリアンの研究者が多い)は彼女の言説を「当時の日本帝国主義の罪を免罪し、従軍慰安婦制度の実態を希釈するだけのもの」と解釈した。「帝国の慰安婦」をしっかり読めば分かることだが、彼女はこの中の論考で、当時の大日本帝国が犯した非人道的罪過について免罪符を与えるかのような主張はしていない。それは左派研究者たちによる「明らかな誤読・曲解」でしかない。

彼女が主張しているのは端的に、「植民地支配で被害を被ったのはもちろん多くの朝鮮人や台湾人などだが、同時に日本の一般庶民も帝国主義政策の被害者でもあった(もちろん加害者でもあった)。そうした視点から何とか未来に向けた『和解の道』を見つけることができないだろうか」ということ。

しかし一方で、ここ2~3年の彼女の(主にフェイスブックでの)投稿・言説を見ていると、私も「朴裕河さん、それはちょっと違うでしょう」というものも少なくない。朴氏もいかにも歴史捏造主義たちに同調しているという誤解を招きかねない言動は止めた方がいいんじゃないんだろうか?また、「帝国の慰安婦」執筆時の様々な資料引用での誤用や解釈の間違いについては、朴氏は謙虚に認めるべきだろう。そこは歴史研究の専門家ではないのだから、変に意地を張っても無意味なだけである。

そして、朴裕河氏と主に左派論陣の対立点の重要な点は、「あの戦争当時の日本の非人道的施策は、その違法性・不法性を問えるか」という点である。

私は1910年のいわゆる「日韓併合」も、従軍慰安婦制度や強制徴用による日本の炭鉱などでの強制労働もその違法性を問えると考えるが、朴氏は「今日的価値観で当時の行為の違法性を問うのは無理がある」と考えている。それは、戦後の東京裁判でインドのパル判事が「第二次世界大戦までの国際法体系では戦争遂行責任者個人の違法行為を問える法律は存在しない」として法解釈上は「全員無罪」を主張したのと通底するところがある。パル判事も日本の帝国主義侵略の過ちは充分認識していたが、あくまで「法解釈としては無罪である」と主張した。私は東京裁判での多くの戦争責任者たちの最終的な有罪判決を支持するし、あれを受け入れたからこそ戦後の日本がある訳だが、朴裕河氏やパル判事の主張は理路としては「一理ある」話でもある。

そしてこの対立は従軍慰安婦問題追及を主体となって担ってきた韓国・正義連など市民団体の「日本は当時の不法行為に対する法的責任を認めて、元従軍慰安婦ハルモニたちに国家賠償せよ」という主張とそれへの批判に繋がってくる。

私は朴氏と違い、今日的観点からでも(つまり今の価値観・法体系を遡及させて)当時の日本の行為の違法性を問えると考えるが、一方でそれを追求するのはいささか原理原則にこだわり過ぎるきらいがあるとも考えている。現実的には日本と(主に)韓国という国家間で「解決」を図らなければどうにもならない問題なのだが、日本が当時の非人道的行為の「違法性・不法性」を認めて国家賠償に踏み込むことはこれからもまずないだろう。この国の政治状況を長く見てきた者として、93年河野談話&95年アジア女性基金以上の「回答」はまず引き出せないのではないか?私はそう考えている。実際、当時の村山政権でも、五十嵐官房長官らが何とか国家賠償を実現しようと奔走したようだが、結局自民党保守派と官僚らの抵抗を覆すことは出来ず、「道義的責任に対する謝罪」と「アジア女性基金を通じての償い金」という形になった。私にはあれが「日本から引き出せるマキシマムの回答」だと思われる。仮に将来日本で多少はリベラルな政権が出来たとしても、「国家賠償」までは決して踏み込まない。世界の先進諸国が、かつてのアジア・アフリカ・南米などでの植民地支配当時の数々の非人道的行いについて「あれは違法行為だったので国家として謝罪し、これからでも賠償します」という潮流になれば日本もその流れに「追従」するだろうが、その可能性は限りなくゼロに近い。なのであくまで「現実的路線」としては、93~95年頃の状況に立ち返って、そこから「未来に向けた負の歴史の継承・学校教育等での慰安婦制度や強制徴用など植民地支配の実態教育・そうした過去の歴史を乗り越えての未来志向の関係構築」を目指すしかないのではないか?私はそう考えている。

そしてもうひとつ。ラムザイヤー「論文」問題が沸き起こってきてから、私は韓国・正義連を支持する団体のwebサイトなどを色々見てみたが、そこには「アジア女性基金からの『償い金』を受け取った人はほとんどいなかった」という記載があったがそれは明らかな誤り。当時まだかなり生存していたハルモニたちの少なからぬ方々が当時の「首相からのお詫びの手紙と償い金」を受け取っているし、当時の挺対協(現正義連に繋がる)が女性基金の活動を阻止しようとしたことも事実。左派論陣や運動団体もウソや誇張はいけない。それでは歴史捏造主義たちとやってることが同じである。私は「あくまで法的責任と国家賠償を求める」とこの運動の最前線に立ってきたハルモニたちを批判・非難するつもりは毛頭ないが、はたしてその原理原則を固守したい元従軍慰安婦ハルモニはどれだけいるんだろう(あるいはいたんだろう)?今現在では韓国での元従軍慰安婦はもう15人しか生存者がいない中、それを言うのも虚しい気がするが、「どういうレベルの謝罪なら納得するか」は百人百様、まさに人それぞれでしょう。「法的責任&国家賠償」だけが唯一の解決策~だとは私にはどうしても思われない。これは極めて「現実的かつ政治的」な側面でのお話。

この問題は書き出すと本当にキリがないので、もうこれくらいにしておくが、私が朴裕河氏の言説などを巡って考えているのは大体こんなところである。






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