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1-悩む青年期には厳しさよりも支えを

僕は仕事柄、中高生を相手にすることが多い。
ということは、僕が仕事をする中で解決すべき事柄も中高生の悩みであることが多くなるのが必然である。

発達心理学などでよく言われていることとして、青年期は「アイデンティティの確立」が重要なものになるらしく、自分のことを考えても「なるほど確かにそうだな」となる。
やはり青年期に多い悩みなのだろう。

自分は何者なのか。何が好きなのか。自分らしさとはなんなのか。どんな振る舞いが自分なのか。
こういったことは、成熟していった大人や、責任のある立場に立たされている大人からすると、実に下らないことだったりする。若輩者のわがままだと思われることもあるだろう。
しかし、自分の生き方で悩む人間に、社会を支える一員としてすべきことをするのだ、と言われて「確かに社会貢献は素晴らしいことだね」と納得して従う青年がいるだろうか。
まあ、難しいだろう。
うるせえよ。という話である。
大人の理論と青年の理論、さらには児童期の子供の理論も、全く違うものなのだから、当然である。

たまにだが、こういった違いを理解せずに、大人の理論で子供を殴る場面が見られる。「大人が子供を」という構図でなくてもいいのだが、なんにせよ「強者が弱者を」という構図である。
確かに、大人の理論の方が比較的正しいことは多いだろう。単純に経験の差があるのだから当然だ。
しかし、青年の理論に沿わないのであれば、その正論は意味をなさない。
幼少期の子供に「どうしてお空は青いの?」と聞かれて「あれは光に関する物理現象で……」などと話す人はあまりいないだろう。もしこんなことを言い出すやつがいたら周囲は呆れてしまう。
別にサンタがいないと最初から言う必要はないのと同じだ。どうせいつかは知ることになるのだから。

相手の理論に沿うということを忘れてはいけない。物事には段階というものがあるのだから、年長者はその段階に合わせて話すような余裕を持ってほしいものである。

こういった段階に合わせるということは、発達途中の子供と接する上では非常に重要なことのように思う。

生まれたばかりの時は、まず親からの愛情を十分に受けることが必要であり、そんな時期から「社会性を身につけるために」「記憶力を鍛えるために」といったことが必須なのではない。
これこそ大人目線の理屈である。僕としては、少し段階を飛ばしているなぁと感じる。
社会性も、記憶力も、タイミングがやってきたら伴走してあげればよろしい。その子供のタイミングを無視して、愛情を受け取るのに適切なタイミングを逃してしまうのはよろしくない。

それに、社会性というのは愛情の上に成り立つことも忘れてはいけない。
他者とコミュニケーションを取ることは、必ずしも良いことばかりではなく、時には傷つくこともあるのだから、嫌なことを避けるという考え方になってしまうと、コミュニケーションから逃げることになる。
こういった時に必要になるのは、失敗した後の逃げ道なのではないだろうか。
仮に失敗しても守ってくれる人間がいるのだという安心感があれば挑戦がしやすくなるということである。
そして挑戦が経験となり、経験が能力を高めることに繋がる。

この逃げ道というのは、例えば親であったり、親友であったり、恋人であったり、その他の親しさと支えを感じることのできる人のことである。
こういった人がいてくれれば、いわゆる「頑張る」ことができる。
だからこそ、少し自分に余裕のある人は、周りの人を支えて、その人にとっての逃げ道になってほしい。


あとは、僕の「頑張る」について話して終わりにしようと思う。

僕は個人的に頑張ることを推奨はしていないのだが、その理由が、世間的な「頑張る」が「無理をする」や「追い込む」といったニュアンスを含むからである。
小さなことでも、成功した人は「無理をすることも必要だ」ということを言うのだが、それは適切な範囲内の頑張ったことを「無理をする」と言っているのであって、本当の意味での無理をすることはやはりよろしくないだろう。
極端な話「死ね」と言うことと同義にすらなりうる。

このような、相手によっては「頑張れ」が「死ね」と同義になることがある、ということは肝に銘じておかねばなるまい。
励ましの言葉を相手がどう受け取るのか分からないのであれば、励ましたい人がいる時には、その人の悩みを聞いたり、一緒に考えたり、挑戦しようとする背中を見守ったりといったことでいいのではないだろうか。
逃げ道があるだけで頑張れる人にはそういった接し方があればいいのだと思う。


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