2-才能は埋められないが、他者のことより自分の分析
塾をしていると、考える生徒と考えない生徒が最初から明確に分かれているなと感じる。
もちろん、考える生徒の方が大抵の場合成績が良い。環境によって多少は差があるので、それだけが要因ではないのだが、少なくとも二人の人間が同じ環境にいた場合であれば、よく考える生徒の方が勉強はよくできるようになるのは確かである。
このような差は埋まらないのだろうか? とよく考える。
基本的に埋まった試しがないため、おそらく埋まらないのだろうが、私がまだ若輩者だからなのか、いまだに諦められずにいる。
その生徒のポテンシャルの範囲内でそれなりに引き上げることはできるため、期待をしながら勉強を教えることは無駄ではないのだが、「誰々より」という比較を持ち出せばもう負け戦なので、あまり比較はしないでほしいものである。まず、個人によってペースは違うし、思考の深さは違うのだから、人よりもできるようになりたいというのであれば単純にポテンシャルの範囲内で可能なところまでである。それ以上は超えられない壁があり、諦めるしかない。
第一、頭の良さはかなり遺伝子で決定されているのだから、諦める他ないことは分かっている。体格ほどではないが、いくら勉強しても頭がいい人はいい。悪い人は悪い。
こういった大きな才能の差を努力で埋められるかどうかというのが勉強で重要な要素なのだが、残念なことに努力ができる遺伝子というものも存在する。
努力ができる遺伝子を持っている人は、元々の頭がずば抜けて良いわけでなくても勉強はある程度できるようになるだろうが、頭の良くない人で努力もできない人は勉強ができるようにはならない。
そしてこの努力できる才能というものは、生まれ持った頭の良さよりも重要になる。
この世の中はそもそもどんなことでも初心者から始まって、何もできないことを身につけていかなければいけないことが多い。であれば、才能があっても続けていかなければある程度のレベルに到達することすらできない。
さらに、この世の中で求められるレベルはそれほど圧倒的なレベルではないため、しっかりと標準的なレベルまで頑張り続ければいいのである。
この世の中は才能よりも努力なのだと言っていいだろう。
昨今、SNSの発達で圧倒的な才能を持つ人を簡単に見ることができるようになった。
容姿などは分かりやすく差を感じやすいが、そういった世界線だけではなく、イラストレーターを目指そうと思い立っても圧倒的な技術を持つ人たちの絵がいくらでも流れてくる世界である。
ダンスを極めようと思っても同年代で上手い人がいくらでもいる。
勉強であっても、同じ志望校の人が自分よりも点数を取っている。
こんな世界線で生きていると、自分の能力を小さく見積もってしまいがちになってしまうように思う。このような状態はどうしたらいいのだろうかと考えてみた。
落ち着いて考えてみると色々ある。
その人はどれくらいの努力量でそのレベルまで到達したのか。
その人はどのような環境に身を置いていたのか。
そしてそれは自分とはどれくらい違うのか。
本当に自分の目指したい道の先はその人なのか。
目の前の気持ちを忘れていないか。
そもそも差があると何がいけないのか。
自分の将来にその実力差は影響するのか。
自分はそれが好きなのか。
自分はそれが楽しいのか。
自分はペースが遅い方なのか早い方なのか。
ゆっくりならちゃんとできるのか。
人のためなら頑張れるのか。
自分のためなら頑張れるのか。
そもそもの目的はなんだったのか。
つまり、もっと考えてみた方がいいように思う。
どう考えていけば自分の心が納得するのかは人によって様々だから、自分の心に目を向けて、目の前に見える恐怖の対象をしっかりと分析して、今自分のできることややりたいことをやっていく。
僕たちはついありもしない妄想を膨らませて竦んでしまうけれど、案外それは自分が思っているほどではないことにしばしば気付く。
しかしこれに気付くには一度客観的な視点に立とうとしなければいけない。主観で畏怖しているのだから当然だろう。
さて、勉強は才能である。
そして努力ができるかどうかも才能である。
身も蓋もないことを言っているのだが、僕はこれをそれほど悲観するようなことではないと考えている。
大事なのは本当にそれほどの才能が必要なのかどうか。それほどの努力が必要なのかどうか。本来は必要ないのに、必要だと感じてしまっているのはなぜなのか。
そして何より、自分のポテンシャルはどこまでなのかを分析し、その自分を活用していける社会のポジションはどこなのかを考えること。これらを考えることで、より良く生きることができるはずである。
そしてあまりよろしくないのは、身の丈に合わないことをすることだ。
勉強が苦手で嫌いなのに勉強の道に進んだり、料理が嫌いで苦手で下手なのに料理人になったり、スポーツができないし好きでもないのにスポーツ選手を目指したり。
こういった選択を「スポーツ選手」だったらほとんどの人はしないのだが、これを「自分はスポーツができないからスポーツ選手はやめよう」と選択しているのではなく、もし「スポーツ選手になれる人は少ないからスポーツ選手は諦めよう」と判断しているのであれば、この分析に「その人」は考慮に入っていないことが問題となる。
もし「その人」を考慮していないのであれば、「大学に行くべきだ」と考えている人も「大学には行かなくてもいい」と考えている人も全員変わらない。
進む先を考えるときに、まず「その人」を見るべきなのである。
生徒にとってみれば「自分」を見ることが必要になる。
そしてまずは自分に向いていることや、やりやすいこと、それらを判断するために、とりあえず向いているか向いていないか分からないことをひたすらに試していくのは良いことである。
なんにせよ、そういう自分の模索という思考だけは常にしていってほしいものである。これだけは、考えない人は辿りつけないところだから、自分のことくらいは考え続けてほしいものである。
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