郷愁と再生産の走馬灯、幸福な溺死。Homage - Mild High Club

Someone wrote this song before
もうこの歌は誰かが先に書いた後
And I could tell you where it's from
教えてあげてもいい、何が元ネタか
The 4736251 to put my mind at ease
4-7-3-6-2-5-1でぼくの心は落ち着く

Please just have a laugh with me
どうかとりあえず一緒に笑ってよ
'Cause you know I'm borrowing by now
だってもう気づいてるだろ、パクってんだぼくは
These sounds, have already crowned
響きはみんな、鳴る前からお墨付き
Come on it's a silly dream
まったく、ふざけた夢だよね
Dreaming of the imagery unfound
夢に浮かべるのは誰も結んでないイメージの表現
The view sits nice from that cloud
浮かんだ雲からの眺めはやっぱり心地がいいもんだ

And if you want a piece of my thoughts
でもしぼくの頭を覗いてみたいなら
There's a coin worth flipping
コインがある 弾けば分かる
Why don't you toss?
試していいよ

Please just have a laugh with me
どうかとりあえず一緒に笑ってよ
'Cause you know I'm borrowing by now
だってもう気づいてるだろ、パクってんだぼくは
These sounds, have already crowned
響きはみんな、鳴る前からお墨付き
Come on it's a silly dream
まったく、ふざけた夢だよね
Dreaming of the imagery unfound
夢に浮かべるのは誰も結んでないイメージの表現
The view sits nice from that cloud
浮かんだ雲からの眺めはやっぱり心地がいいもんだ

And if you want a piece of my thoughts
でもしぼくの頭を覗いてみたいなら
There's a coin worth flipping
コインがある 弾けば分かる
Why don't you toss?
試していいよ
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 この動画で知った曲。文脈が分からない人には何も伝わらないと思うが、やりきれない切なさのある30秒である。
 細切れで何が何だか分からない一瞬一瞬のそれぞれは、00年代から10年代半ば(この辺ざっくり)に流行った英語圏の有名「トラウマ画像」「トラウマ動画」の切れ端たちだ。(その辺りで話題になった、というだけで画像/動画元の初出は90年代だったりする。)未だコンピレーションに入ってたり話題になったりするものもあるが、大半はもう正直陳腐化してしまっている。何故陳腐になってしまったのか、の過程にもまた語るべきことがあるが一旦後に回す。
 かつてはあんなに怖かったのに、今も心には強く焼き付いているのに、もう何とも思わない。この目眩く30秒に覚えるのは、恐怖でも気味の悪さでも不愉快さでもなく、郷愁だ。心の中の大事な部分を構成した諸々への敬意と懐かしさと、それらがすっかり変わってしまって、もはやなくなってしまったのに等しいことへの哀しみだ。(懐かしさと悲しみが混じったのが郷愁だろ!と突っ込むあなたは正しい。僕は自分のレトリックに酔っている、才能のない、思慮の浅い書き手なのだ。)
 これと似たことはこのような「トラウマメディア」と関係なくとも起きることだ。あんなに好きだったし今も心の中で大事な部分を占めている作品が、見返してみると大して面白くない…。この例を考えると、この郷愁は、成長したのか衰えたのか、何にせよ自分自身が変わってしまったことへの悲しさ、虚しさ、どう受け止めて良いものか分からない不安が絡んでいるのが分かる。

 あるいは、もう一度元の話を戻すなら、これらの「トラウマメディア」が褪せてしまったのには別の分かり良い理由が見出せる。流行った時期の最中からそれ以後にかけて、これらを参照元、パクリ元とした、ネット発の別の作品が作られ過ぎた。
 クリーピーパスタ(英語圏での創作都市伝説/怪談。これ自体は00年代頃からある文化で、トラウマメディア達の流行より古い。)は粗製濫造され、複製に次ぐ複製か繰り返され、二次創作三次創作に塗れ、思春期のアレな子が雪崩れ込み、ブームは終わった。クリーピーパスタも、その分派、一ジャンルとして独立したSCPも、場としての新鮮さはなくなり、かつての活発さはもう無い。
 トラウマメディアをそのまんま元ネタとするアナログ・ホラーも、粗製濫造の結果、ジャンルそのものが飽きられつつある。かつての名作をテンプレに作られた新しい作品は単純につまらなくなった。映像系では各ブームの落とし子としてBackroomsがあったり、あるいはアナログ・ホラーのベスト盤的趣きのあるMandela Catalogueがあったり、それらの作り手がティーンであることへの素直な驚きがあったりもするが、何にせよもう全盛期は過ぎた感が強い。デジタル・ホラーが出て来つつあるが、広く当たったのはLacey’sぐらいで、まだアナログ・ホラーの再生産の方がずっと多い。
 そして、あるいは、単にこれらのトラウマメディアが、「トラウマメディア」と名付けられて語られ消費される中で、飽きられ、つまらなくなった。
 語り口はいくらでもあるが実のところどうでもいい。ただ、かつてあんなにおぞましかったものがつまらなくなった。それがおぞましかった頃に対して懐かしささえ覚えてしまう。意味の分からない心理だ。恐れ、気持ち悪がっていたものが何でもなくなったのだからそれで良いのではないか。いや、そうじゃない、僕らの心をあの時蝕んだように、今も尚蝕み続けていて欲しいのに。かつて僕らの心を切りつけて作った傷を、もう一度作れるだけのものであって欲しいのに。もう変わってしまった、終わってしまった。僕らは何かを忘れ、何かを落として来てしまった。ここにあるのはそういう30秒である。
 そして醜く愚かに、この頃は良かった、昔はもっと豊かで面白かった、などとぼやきながら、走馬灯のストロボでトリップし、脳細胞は死んでいき、今ここを生きることがより困難になり、世界はますますバーチャルなものになっていく。かたちあるものには何にも触れられない。

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 Homageはこの動画に限らず、ノスタルジア満ち満ち系の動画でよくよく使用されているようだ。郷愁と再生産の万華鏡、走馬灯に溺れてその心地良さの中で死んでいく自分、今ここ。そんな自分をメタ的に眺めて「あーぁ、」「でももう何でもいいか、」「どうにか出来るわけでもないしな、」「いやでも悲しいし馬鹿みたいだな、」などと思う、そんな感傷の坩堝と、曲のアレンジはあまりにマッチしている。
 歌詞の内容は、過去の再生産に陥ることへの苦悩、痛み、しかしそれらが「あまりに心地すぎる再生産」という痛み止めによって曖昧になる様、どうしたら良いかわからないんだ笑ってくれよという泣き笑い、陶酔の中で、再生産に陥らない新しいイメージを、表現を探したいと頭の片隅で思いながらも、鎮痛剤に溺れるがまま……
 そして最後の3行ではそれまでを踏まえてもあまりにどうしようもない内心が告白される。
 一般的には、創造を駆動する最大の要素は想像力であり、その想像力の源泉は作り手の想い、考え、述べたいことである、と整理されるだろう。作り手の奥底にイメージがあるからこそ、それを具体化するための表現を求め、非常に個人的なイメージのためにぴったり来る、新しい表現を求める…これが「健康的」な産みの過程、と少なくとも世間的には考えられているように思う。
 しかしそれら「健康的」な何かとは全く違い、そのままに読み取るならこの3行は、「ぼくの頭の中」には確固たるものなどないとぶっちゃけてしまっている。コイントスのような全くランダムな仕掛けによる答えに従って、ようやく「ぼく」は決定される。新しいイメージとその表現を求めながらも「ぼくの頭の中」には、それを産むために必要不可欠であるはずの「ぼく」が存在していない。
 これはコイントスに限らず何だって良い。あらゆる外部要因は、個人からすればランダムに、操作できない形で、何か結果を生み出す。それに対し、「ぼく」はそれらの結果を制御し、望む方へ導こうとはしない。導く方法も分からない。そもそも望む方などないし、外的要因による結果がなければ「ぼく」はまるで定まらない…、あるいは、定める気すらないのかもしれない。
 言いたいことも考えていることも何もない。ただ、再生産しか出来ない虚しさと、それを上回るペインキラーの心地よい効き目に酔い、悲しみや情けなさや、「ぼく自身」という健やかなあるべき何かは、全てどうでも良い背景と化してしまう。それらは万華鏡と走馬灯のストロボの間にチラチラと見えてはいるが、見えているからこそ深く考えずに済むように、よりラリってより酔い続けていこうとする。
 実際、「ぼく」の中にもなく、しかも誰も表現したことがない、彼が夢見る「イメージ」とやらは、そもそも何処かに存在しているのだろうか?おそらく、存在などしないのだろう。彼、「ぼく」はありもしないイメージや、その表現を夢見ているのだ。この点で、この曲はヴェイパー・ウェイブ的文脈とも接続される。
 曲のさまざまな点を取ってみても、今(ないし少し昔)に流行った何かと情感として接続しやすい、時代を象徴するような一曲だと言える。リリースは2016年。単純に考えれば、ヴェイパー・ウェイブの流行の最中にリリースされたと思っても間違いないだろう。
 僕らは再生産のその先に行くことが出来るのだろうか。おそらくそこは心地よくない。それを皆が評し、ほめたたえることなどあるのだろうか。アメリカのポップチャートの上位は意外にも実験的なものを含んだ曲がランクインしている。それと、僕らが垂れ流すゴミの差は何なのか。分からない。ただただ、酩酊の誘惑と、まんまと誘われるがまま酩酊した自分だけがある。

※1 4-7-3-6-2-5-1は古典的なコード進行を指している。使い古された、でも気持ちのいいコード進行。この節は、まさにその4-7-3-6-2-5-1が採用されている。
※2 どうでもいいが、このJeff the Killerを美少女化した画像の出来は素晴らしい。軽く調べるに、AI生成によるもので、初出は4chだかRedditだそう。
※3 さらに関係ないが、数日前、この記事を弄り廻りしてる最中に、ずっと真夜中でいいのに。の『花一匁』を聴いた。出来ることって過去の再生産しかないんじゃないの?というやりきれなさや、「本物」、意味が欲しいのに、という吐露や、ぐちゃぐちゃの弱音とこんな僕を笑ってくれというモチーフなどがぴったりで驚いた。しかし、『Homage』のようにその陶酔感の中で死ぬしかないよねという諦め笑いは無く、そんなどうしようもない現状ではあるが生き延びてやりたいという話に着地するところにまた驚いた。こっちもいい曲。

※4 これは昔の記事の再録。

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