点と点を つなぐ日々。その3

とまああっという間に前回から日が経ち本日は既に5月。

「その1」を書いたのが緊急事態宣言出て10日後ぐらいで今日は当初期日とされていた日だから、あっちゅうまでした。

何事もなかったかのように「その2」から線をつないでいこうと思う。

なんでプロテスタントが出来たのかというと、歴史の一ページを飾っているかの”宗教改革”がきっかけ。

わたくしは小学校~最近までありとあらゆる歴史という学問が苦手で、宗教改革も「聞いたことあるな」ぐらいの認識やったんですが、「オリジン」を読んだのをきっかけに再勉強(といっても雑誌やネットで調べただけ)。

宗教改革っていうのは、”免罪符”っていうものが発行されたことがきっかけで起こった事。建前上は信仰心のある人たちに向けたいわば”お守り”みたいなもんだけど、免罪符はタダでもらえるわけではない。そこにルターという人が待った!をかけた。こんなもんで魂が救われるなどたわけるな、と。現に免罪符は、新たな教会建設費用を賄うために発布されたと言われている。

昔からみたいだけど、宗教は政治と癒着している。このころのキリスト教はその関係が顕著だったのかもしれない。政治が絡んでいなくとも、敬虔はキリスト教信者を装って自分の財を肥やすことに熱心だった聖職者も多かったかもしれない。完全に堕落してしまった、免罪符は、そんな不満を募らせていた信者たちの堪忍袋の緒を切ってしまったのかもしれない。(自信がないので全て断言できない笑)

みんな、もう一回ちゃんと聖書読もう!ってことで、当時はおざなりにされていた(かもしれない)聖書を再読。当時聖書は、人々の識字率が低かったことや、そもそも聖書がみんなが理解できる言語に翻訳されていなかったたこともあり、一部の人にしか読むことができないものだった(らしい)。それをルターがドイツ語に翻訳。印刷技術が発展したこともあり、以前よりも沢山の人々が聖書を読めるようになった。その中の内容に由るものなのか、プロテスタントは、偶像崇拝の禁止も始めてしまった(らしい)。そのため、宗教改革の際は多くの宗教画が破壊されてしまった(という)。

おや?と思う。

もともと宗教画は、文字が読めない人たちにもキリスト教を分かりやすく伝導するためのひとつの手段だった筈。

聖書の内容が理解できるまでは、みんな絵画からキリスト教のことを教えてもらって、そのおかげで信仰できていたのでしょう?

今までお世話になってきた恩師を裏切るような行為だ、、、などと私はひとり驚愕してしまったのですが、歴史に詳しい方からすると、果たしてどうなんでしょう?

いろいろと読んだ中には、ルターはこの破壊運動を否定していて、こういうことをしていたのは一部の急進派のみだったという記述もあったので、本当にただの恩知らず者の行動だったのかもしれないし、絵画の方も、当時は発注主を神聖な場面に登場させたりしていたみたいなので、破壊されたのはそういう”神と金”の履き違えがあからさまに表れているものだけだったかもしれない。

「オリジン」を読んだだけなのに。

こんなところまで来てしまった。

しかし、だからこそダン・ブラウンの小説は面白いという結論で締めくくりたい。

小説はあくまで空想の世界でしかないし、アートが絡んでくるあんなにハラハラする冒険(死者がでているので不謹慎かもしれないけど)なんて現実には、まああり得ない。

どんな小説でも、頭の中で空想を巡らし、彼らとの冒険が終わりページを閉じた後、どうしても私は寂しくなってしまう。その物語が面白ければ面白いほど。

それが現実と地続きになっていたらどうだろう。単に物語の背景としか描かれない場所や環境や社会情勢や誰かの何気ないセリフが現実に存在するものと関わりあっていたら、そこから世界はさらに広がるだろうし、その点と点を結んでいけば、そこから生まれた線は自分のすぐ側までやってくるかもしれない。それに気が付いた時の感動は筆舌に尽くしがたいものだ。

今回「オリジン」から伸びてきた線は、まったく興味がなかった私からは遠い世界へ連れて行ってくれた。その線は私の近くまでは届いていないけれど、今なお伸び続けて、自分が知っていた世界やすでに読んだことのある本と結び続けている。

いろんなものに結びついてゆく。もしかすると、まわりまわって、すべてのものが結びついてゆくのかなぁ~と、そんな光景をぼんやりと眺めて過ごしていたステイホーム期間でした。おしまい。



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