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「いま暇?」構文の論理的誤り~多重質問の誤謬~

「いま暇?暇なら~」

「いま暇?」と聞かれて先に暇であることを伝えてはならない「暇なら~手伝って」(あまり手伝いたくない内容)を断る理由がなくなってしまうからだ。この「いま暇?暇なら~」構文が苦手な人は多い。

暇じゃないといっているにも関わらず「暇なら~」などと言ってきた場合は明らかに相手が悪い。しかし、こちらが「暇だけど何?」などと返した日には相手の土俵にわざわざ上がってしまうことになる。

「いま暇?」構文は相手に先に「暇なら〜頼まれてくれない?」を引き出すことだ。なぜなら、暇であるかどうかを確かめずにはじまる「暇なら~頼まれてくれない?」構文には隙があるからだ。多重質問の誤謬という名の。


多重質問の誤謬とは

多重質問の誤謬($${\textit{Fallacy of Many Question}}$$)とは,答えさせたい返答しか受け付けないような形の命題のことだ。例を見てみよう:

あなたは妻を殴るのはもう辞めたのですか?

例)家庭裁判所の質問で
  • この質問に「いいえ」と答えたなら、あなたは妻をいまでも殴っていることになる

  • この質問に「はい」と答えたなら、あなたは妻を過去に殴っていたと認めたことになる

したがってこの質問ははいと答えてもいいえと答えてもDVの証言になってしまうのだ。(本当に「妻を殴った過去」があるならこの質問は誤りではないことに注意しよう)


歴史の中の多重質問の誤謬

多重質問の誤謬で最も古いものはメガラの哲学者エウブリデスの「ツノを持った男」のパラドックスだろう。

ツノを持った男:
あなたがまだ失ってないものはまだ持っている。あなたはまだツノを失ってない。したがって、あなたはツノを持っている。

グレアム・プリースト,『存在しないものに向かって』

もちろんあなたが牛や鬼でもない限りツノなんて生えたことすら無い。そしてそもそも一度もツノを持ったことなんてないのでツノを失うことなどありえない。したがって「もしあなたがツノを失っていないなら、あなたはまだツノを持っている」は誤りだ。

近代の哲学者ですらこの誤謬にハマってしまった。悪名高いデカルトの神の存在証明だ。

デカルトの神の存在証明
神の定義:神はすべての属性を持つ(よって存在するという属性も持つ)
i)存在する神は存在するか存在しないかのどちらかだ
ii)存在する神は存在しないは矛盾だ
したがって、存在する神は存在する

レイモンド・スマリヤン,『この本の名は?』241問,改変

このような神の存在証明はカントによって存在という述語の使われ方について糾弾されたという意味で悪名高い(「存在はふつうの述語ではない」(カント))。しかし、この証明は存在が述語であるかどうかに関わらず単純に誤りだ(スマリヤン)。

スマリヤンによるとこの命題自体が曖昧さを含む文を前提としているという。だが、同時に神の存在証明は以下の形でも問える;

(神が全ての属性を持つなら)神は存在すると思うか?

これは多重質問の誤謬の構造だ。[はい\いいえ]のどちらにせよ神は存在しているという結論が出てくるのだから。

エウブリデスの「ツノを持った男」にしろ、デカルトの「神の存在証明」にしろ、多重質問の誤謬はいったいどのような構造を持っていると言えるだろうか?

多重質問の誤謬の原因

多重質問はその名の通り多くのことを聞きすぎるために起こる。しかしこの多くのことを聞き過ぎるとはどういう意味か
多重質問の誤謬は論点先取りと誤った二分法という論理的誤りを犯している。

論点先取り論法

多重質問はそもそも何を前提にそんなことを聞いているのだろう?神の存在証明を例に見ると

存在する神は存在するかしないかのどちらか(存在述語$${E}$$を認めて)
$${E_{神}\to(E_{神}\lor\neg E_{神})}$$

神の存在証明を簡単に表すと「神が存在するならば神は存在するか存在しないかのどちらか」となるが、前件にすでに「神は存在する」という本来結論にあるべき論点が先取りしてある。神が存在するかどうかはまだ分からないのに

さらに家庭裁判所の例やツノを持った男のパラドックスも同様だ。

あなたが妻を殴ったのなら、あなたは今はもう妻を殴るのを辞めたのか(orまだ辞めてないのか)」
あなたがツノをまだ失っていないなら、あなたはツノをまだ持っているかもう持っていないか」

結論として述べたいことを前提で言ってしまっている

$${\textit{cf.}}$$これらの形式を見ると$${P\to Q}$$(「PならばQ」)という形になっていることがわかる。「PならばQ」のPを前件、Qを後件という。

結論を後件としたとき、その前件P部分(前提)に先に結論にすべき命題をもってくる論法を論点先取りの誤謬という。$${\bold{*{^2}}}$$

これはすなわち$${P\to P}$$(「PならばP」)という循環論法である。


「正義は勝つって!?そりゃあそうだろ」
「勝者だけが正義だ」
『ワンピース』57巻,556話

漫画『ワンピース』におけるドフラミンゴの有名なセリフ。しかし、「勝者だけが正義だから正義は勝つ」は論点先取りだ。

誤った二分法

多重質問が「はい/いいえ」に関わらない質問になるのは誤った二分法($${\textit{Fallacy of A False Dichotomy}}$$)が行われているためだ。二分法とはものごとをAかAでないかに分けるというやり方である

(モノクロの映画を見ているとしよう。「モノクロ映画に出てくる色は黒が入っているか入っていない(=白)かのどちらかだ」は正しい二分法だ)

wikipedia,[ローマの休日
  • 妻をまだ殴っているかもう殴っていないかのどちらか。どちらを選んでもあなたは妻を殴っている(\殴っていた)ことになる。

  • ツノを失ったかツノを持っているか。どちらを選んでもあなたは角を持っている(\持っていた)ことになる。

だが実際には、「妻を殴ったことなど一度もない」可能性だってあるはずだ(ツノは言わずもがな)。このように別の可能性があるにも関わらずAかAでないかのどちらかだけが真実であるかのように迫るのが誤った二分法の例だ

この誤った二分法に論点先取りの前件Pが付け加わると
$${P\to (P\lor\neg P)\vdash P}$$(PならばPかPでないかだ、したがってP)
しかし、ここでの論証は形式的に誤りである

$${P\to Q}$$から$${Q}$$と結論するには前提に$${P}$$がなければならない(前件肯定規則*$${^2}$$)。したがって、$${P\to P\lor\neg P\nvdash P}$$
すなわち、前提に「$${P}$$が成り立つ」が付け加わらなければ論証にならないのだ。
($${P,P\to P\lor\neg P\vdash P}$$は正しい論証)

したがって、多重質問を仕掛けられた側は暗黙の裡にいつの間にか(ほとんどの場合隠された)前提$${P}$$を認めたことになっている。前提$${P}$$が成り立つかは分かっていないはずなのに。

そして前提$${P}$$を受け入れればそこには誤った二分法が待っている。これが「多重」質問の意味だ。

つまり[(隠された/暗黙裡の)前提Pについて認めますか?]$${_1}$$認めるなら[Pなんですか?Pでないんですか?]$${_2}$$の二つについて同時に聞く質問なのだ。

$${\textit{cf.}}$$もちろんここで論点先取り論者はそのような前提$${P}$$は実際に成り立っているということはできる。しかしそれは次の論証と同じとなる:<神が存在することがわかっているときの神の存在証明>

神が存在するならば、神は存在するor神は存在しない(P→(P∨¬P))
神は実際に存在する(P)
───────────────────

∴神は存在するor存在しない(P∨¬P)
⇔(PかPでないかどちらか)
(実際にPなので)神は存在する(P)

このような神の存在証明にはあまり意味はない。なぜなら論証しなくても神が存在することはわかっているからだ。

「暇なら」構文の誤謬

「暇なら」構文は次のものと定義する:
i)どんなときでも(暇かつTできない)ということはない
ii)暇なら、TできるorTできない
したがって、暇ならTできる

・「暇ならTできる?」は「暇なら」構文である

以下の質問は「暇なら」構文;

「暇ならこの作業手伝ってよ」

いいえ→暇なんでしょ?手伝ってよ
はい→手伝ってくれるんだ

これは明らかに多重質問の構造だ。よってあなたがまだ「暇だ」と伝えていないなら(いま本当に暇か暇でないかはあなたのみぞ知る)、
相手が「暇なら~」と頼み事をしてきたとしてもそれを断ることができる。

「暇じゃないので」

(これが言えたら苦労しないというのはナシだ)

実際、これは直観的にわかることだ。わざわざ長いこと語った割にあまりに簡潔な幕切れである。しかし、私は多重質問の誤謬はどれもこの「暇なら」構文と同じ程度の問題でしかないということを言いたい。

なにか不都合を押し付けられそうなときに、「暇なら」構文さえ思い出せばどこを否定すればいいかすぐに分かるだろう。

誤謬とは

多重質問の誤謬はいつでも誤謬であるわけではない。それは文脈による。多重質問が嫌われる理由は前提を認めると質問された側にとって不都合なことまで認めなければならなくなるためだ

e.g.「妻を殴ったと認める」,「神はいると認める」

しかし、これらの前提が事実であった場合、あるいは別に不都合でなかった場合は何も問題にならない。妻を本当に殴っていたなら「妻を殴るのは辞めたのですか」は順当な質問だし、敬虔なキリスト教徒にとっては神の非存在のほうが不都合である。

誤謬(fallacy)の中には論理学の立場から排斥すべき形式的な間違い(後件肯定など)と文脈ごとに判断すべき間違い(論点先取りなど)に分かれている。

文脈ごとに判断すべき間違いはよく聞いてみるとちゃんとした理屈が述べられていることも多い。なんにでも敏感に覚えたての誤謬訂正を振りかざすべきではないのだ。

「いま暇?暇ならこのまえ観たいって言ってた映画見に行こうよ」

これは「暇なら」構文である。そして、たしかにいまは暇だ。
しかし、私が見に行きたい映画を見にいけるならなんの不都合もない。



脚注

*1;エウブリデスのパラドックスは非常に有名なものが多い。最も有名なのは「嘘つきのクレタ人のパラドックス」だろう。

嘘しかつかないクレタ人が「今喋っているのは本当のことだよ」と言った。これが本当のことなら嘘しかつかないクレタ人が本当のことを言っていることになり、これが嘘なら「今喋っているのは本当のことだ」という文に違反する。したがってこれはパラドックスである。

 

*2;論点先取りの誤謬は文脈における誤謬である。そのため通常の論理学(構文論および意味論)においては問題にならない。というのも$${P\to Q}$$から$${Q}$$を導きたいとき、$${P}$$を仮定するのは禁じられていないからだ。もちろん、科学の場ではその前提Pが本当に信じられるかを実験や統計によって確かめられなければならない。

*3;前件肯定規則(MP,モドゥス・ポネンス)は前提p,p→qからqを導出してよいという最も基礎的な推論規則である。また後見肯定は構文論的誤謬である。すなわちq,p→qからpを導出してはいけない。
後件に関しては後件否定規則(MT,モドゥス・トレンス)がある(p→q,¬ qから¬ pを導出して良い).

参考文献

  • レイモンド・スマリヤン,訳 川辺治之,『この本の名は?』,日本評論社(2013)

  • グレアム・プリースト,訳 久木田水生,『存在しないものに向かって』,勁草書房(2011)

  • グレアム・プリースト,訳 菅沼聡,『論理学』,岩波(2008)


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