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【映画】『アリスとテレスのまぼろし工場』【ネタバレ感想】


(C)新見伏製鐵保存会


 公開初日から観てきたアリスとテレスのまぼろし工場について雑記感想をば
 確か初めてこの映画について知ったのはもう一年くらい前になる、youtubeだったか映画館だったかで予告編を見て引き込まれたのを覚えている。(今1stトレーラーを調べたら二年前だったので覚えていないかもしれない)


 トレーラーだけで引き込まれたため途中からあの『さよならの朝に約束の花をかざろう』の岡田麿里最新オリジナル映画と知り、さらにワクワクしたものだ。あの『さよ朝』のといったが古いオタクの私にとっては岡田麿里といえば『とらドラ』で、あるいはTCGが好きな身としては『WIXOSS』の岡田麿里だと思い至るのが先だったが。脚本すべてにハマる訳では無いが、ハマったときの爆発力においてこの脚本感の右に出る人はそうそういない、特に思春期の少年少女の感情を書かせたら。

 というわけでかなり早くから本作の情報こそキャッチしていたのだが、私自身はその情報をほとんど追っていなかった、忘れていたわけではなくオリジナルアニメに対して変な先入観を持ちたくなかったというのが大きい。だから見に行った映画館で流れるトレーラーやポスター以外にほとんど何も知らないまま観てきた。結論から言うと面白かった。それも求めていた方向性の面白さだった。


 



あらすじ

前半のあらすじ(公式サイトSTORY引用)

菊入正宗14歳。彼は仲間達と、その日もいつものように過ごしていた。すると窓から見える製鉄所が突然爆発し、空にひび割れができ、しばらくすると何事もなかったように元に戻った。しかし、元通りではなかった。この町から外に出る道は全て塞がれ、さらに時までも止まり、永遠の冬に閉じ込められてしまったのだった。

町の住人たちは、「このまま何も変えなければいつか元に戻れる」と信じ、今の自分を忘れないように〈自分確認票〉の提出を義務とする。そこには、住所、氏名、年齢だけでなく、髪型、趣味、好きな人、嫌いな人までもが明記されていた。

正宗は、将来の夢も捨て、恋する気持ちにも蓋をし、退屈な日常を過ごすようになる。ある日、自分確認票の〝嫌いな人〟の欄に書き込んでいる同級生の佐上睦実から、「退屈、根こそぎ吹っ飛んでっちゃうようなの、見せてあげようか?」と持ち掛けられる。

正宗が連れて行かれたのは、製鉄所の内部にある立ち入り禁止の第五高炉。そこにいたのは、言葉も話せず、感情剥き出しの野生の狼のような謎の少女。この少女は、時の止まったこの世界でただ一人だけ成長し、特別な存在として、長い間閉じ込められていた。

二人の少女とのこの出会いは、世界の均衡が崩れるはじまりだった。止められない恋の衝動が行き着く未来とは?



後半のあらすじ(ネタバレ注意!!)

謎の少女は名前ももっていないようで、正宗は工場の五番高炉と睦実にちなんで五実と名付けた。五実がなぜ工場に閉じ込められているのか分からないまま身の回りの世話を手伝う正宗。ある日正宗は工場の所長であった佐上の義理の父に閉じ込めていた五実と会っているのがばれ、追いかけられることになる。

一緒に連れ出した五実にもっといろいろな世界を見せてやると正宗がいう。すると空のひびが広がり出し空間そのものが裂けていく。ひびの向こうにあったのは別の夏の世界だった。

ひびの向こう側には現実世界があったのだ。工場長はこの世界を現実に帰すためではなく、まぼろしのような世界を存続させるために町民へ変わらないことを強要していたのだった。

次第にひび割れの頻度が高くなっていき、神機狼に呑まれて消える人も出てくる。ある夜正宗は部屋の中にまで入ってきたひび割れから現実世界を見るとそこには、おとなになった正宗とその妻となった睦実の姿を見てしまう。そして実は五実が自分と睦実の子供だったことを知る。すべてがまぼろしの世界の中で五実だけがたまたま紛れ
込んだ現実世界の人間であることを。

正宗と睦実は五実を現実世界の自分たち夫婦の元へ送り届けてやり正宗と睦実の仲は急速に深まっていく。しかしそれを見た五実は自分が仲間はずれにされていると感じてしまい、世界のひびが一気に広がってしまう。

唯一現実の存在である五実の心の動きはこの世界においては変化が激しすぎたのだった。そんな中現実世界を結ぶひびが広がった今なら五実を現実世界に、もう一人の自分たち夫婦の下へ還せるのではないかと考える正宗と五実。

クラスメイトらや工場長を巻き込みながらなんとか現実世界へと五実を帰すことに成功した正宗と睦実。いろんな痛みや別れを通じて自分たちがまぼろしの存在ではなく生きていることを再確認した。

場面はかわり、現実世界に帰ってきた五実のその後。今は別の町に住んでいるらしく、久しぶりにみふせの町に一人きりで観光できるほど成長している。そして廃墟となって久しい製鉄所の5番高炉へ帰ってきた。失恋の思い出を残しながら。


  • みふせ町:正宗らが閉じ込められた町。漢字では見伏と書く。

  • 製鉄所:みふせにある鉄鋼山から鉄を取り製鉄していた工場。この山自体がみふせに伝わる信仰対象となっているらしく、製鉄所所長によると一連の現象は神罰だという。この製鉄所自体が神である山自体を切り出して作ったものであることから神の機械とかいて神機と呼ばれている。製鉄所は人が触らずとも稼働しておりいつも煙を吹き出している。

  •  神機狼:神機である工場から出た煙が巨大な狼の首のような姿になることから名付けられた。みふせの空に現れるひびを修復したり、ひびが入ってしまった人間を消してしまう。


タイトルについて

タイトルの『アリスとテレスのまぼろし工場』という名称は不思議な引力があるように思う。私は最初にタイトルをみただけでも惹かれるモノを感じた。

 まずみんな考えると思うのだが、このタイトルだけをみるとアリスとテレスという二人の主要人物がいるように思ってしまわないだろうか?私は思った。そしてあらためて観ていて、アリスもテレスも出てこないことに最初にびっくりしてしまったかもしれない。

 次にアリストテレスという偉大な古代ギリシアの哲学者となんらか関係があるのか?という純粋な疑問が湧く。もちろんアリストテレスはまぼろし工場の工場長などではない。(チャーリーとチョコレート工場の過去外伝のトレーラーなら上映前に流れていた)作中でそれらしき言及があったのは正宗の父親が読んでいた少年漫画週刊誌の見開きで「哲学奥義!エネルゲイア!」と叫ぶキャラがいたことくらいだ。しかしアリスとテレスという題名からなんの意味もなくアリストテレス哲学の用語が登場するわけはないだろう。やはりアリストテレスのことは意識していそうだ。

 アリストテレスは万学の祖などと呼ばれることもあるくらい多岐にわたる功績を残した人物で、こういう思想の人物だったと一言で言うのは難しい。しかし、"エネルゲイア"が主題にあるのであれば、それは可能性と現実性の物語になるのではないかと思う。詳しい解説は別記事でしようと思う。

 「アリスとテレス」という印象的なタイトルはアリストテレス哲学を下敷きとして、「睦実と五実」という瓜二つな登場人物がいることの仕掛けにもなっているのだろう。

「アリスとテレス」の謎に比べて「まぼろし工場」の方はわかりやすくまぼろし工場だった。工場は製鉄所そのものだし、まぼろしというのはその工場の出す煙とそれが修復しているみふせの世界そのものだろう。特に考察ポイントではないが『アリスとテレスのまぼろし工場』というタイトルとしてみるとどことなく児童書のタイトルにでもありそうな不思議な魅力があるように思う。*1

感想

作中での「時間の使い方」

 まず、この点で驚いたのは劇中での時間の重みの使い方だ。私は観始めてしばらく主人公らがみふせの町に閉じ込められて、数週間とか長くて1~2年だろうとか思っていた。それが、劇中のセリフや場面でどんどんと伸びていくのが同時にこんなに長い間変わらない町に閉じ込められていたのか‥‥と主人公たちへの共感へ変わっていく体験は新鮮だった。

 最初はそれこそ閉じ込められているということが(観客目線で)わかっていない状態からスタートだ。そして物語を通して序盤を観ていると変わらない日々に気づき退屈している正宗たちを見て、みふせの異常事態に気づいていく。しかしこの時点では、まあ長いこと閉じ込められているんだろうなあくらいにしか思っていなかった、数週間とか数ヶ月程度のイメージだ。それが正宗が運転しているシーンを挟むことでもしかして数年単位、少なくとも現実世界では免許を取れる年齢まで時間が過ぎているのでは?と思い直す。

 そして、異質な少女・五実の登場により、五実が成長しているという情報から10年近くの時が経っていたことを知る。劇中で「~年後~」といった表記を使わないことで冒頭の正宗らがまだ本当の中学生だったシーンからどれほど時間が過ぎているのかを意図的に隠す演出がうまいと思わされた。同時にどんどんと閉じ込められている期間を観客側が推し量れることで正宗らの鬱屈とした心情がより理解できる構成になっていた。 

 「時間」の話とは別になるが、なぜ正宗らは痛みを伴う遊びを繰り返しているのか?なぜ年中冬なのに薄着の五実が寒いというのを不思議がったのか?などの些細な疑問もしっかりと回収していく構成はニクい。



はじめての「恋愛」とはどういうものか?

 この物語の大枠としては心の持ちようで誰でも変わっていける、ということだろうけど、その過程は少年少女の恋物語だった。そしてそれを表現するのにやはりなんと言っても岡田マリー節が効いていた。10年単位で閉じ込めれていても、彼らは変わらないことを求められ続けたこともあって彼らの心は思春期の中学生のそれだ。恋をして失恋をして時に大喧嘩をしてといった青春劇はそれだけであま酸っぱいストーリーになっていた。それと同時に変化がない町で変化が起きていく過程が少年少女の恋により進んでいたとも思う。本作をジャンルづけるなら恋愛映画寄りだと思う、つまりジュブナイルだ。あとキスシーンがすごく長くてちょっと笑ってしまったw(だからこそ五実はあんな事になったのだが)

 作中で一番最初に神機狼によって消えてしまうのは正宗へ初めての告白をした女子だった。彼女は正宗が睦実のことを気になっていることに気づき、その告白を他のクラスメイトに知られた恥ずかしさからもうここには「居たくない」と思い、身体にひびが入ってしまう。

 好きというのは「痛い」、好きというのは誰かと「居たい」、好きという気持ちは「大嫌いに似ている」と作中に出てきた好きへの解釈はその意味自体に共感できるとともに、五実を通して作中に反映されていったのが構成としてよくできていた。好きは痛いから、睦実に正宗を取られたと思い心が動き世界がひび割れた。好きは居たいから、現実世界に帰るのをためらっていた。好きは大嫌いの裏返しだから、最後睦実と別れるときに「大嫌い」と言いながら涙した。登場人物たちがジュブナイルに織りなす恋模様をまだ幼かった五実に反映して展開を動かし、五実の精神を成長させていった。物語さいごの五実のモノローグからこの話は五実を主人公として見れば長い失恋物語だったといえるだろう。

 



やらない理由にはならないという話


 この物語の最大の主題は人はどんな状況でも変わっていくことができるということだった。正宗はイラストレーターになりたがっていたが大人になれないこの町でそれが叶うことはないと悲観していた。しかし、イラストを描く手は止まらない。年数を掛けてどんどんと上達していく。それは、イラストを発表する場がなくとも描くことが好きだからで、変わらない町でも人は成長できることの証拠でもあった。それまでなんとなく睦実に恋していたもののはっきりした態度に表さなかった正宗が告白まで行ったのも、睦実から正宗がイラストを好きなのを知っていると言われたからだ。

 それに正宗のおじいちゃんがこの町がこうなったのを神罰なんかじゃなく、製鉄所が賑わい町が一番活気あるこの瞬間を褒めてほしくてこの町の時間を切り取ったという解釈をしている場面も好きだった。結果としては変化と真逆の結果だが、好きなものを褒められたい、好きなことをずっと続けたいというのもこの映画の主線だとわかる。

 誰にでも諦めた夢のひとつやふたつあるものだ。しかし、諦めたからと言って夢に恋いこがれた対象を真に嫌いになる人は少ない。絵を描いたり文章を書いたり、学生の頃打ち込んでいたスポーツをしたり、観たり。そういう夢の延長線上でも好きなら好きでいいんじゃない?それが生きがいになるんだ。



一番好きだったシーンと自分語り 


 ここからはマニアックな感想というか個人的な趣味嗜好のようなものだが、この映画で一番良かったと感じたのは五実が現実世界へ帰る際、まぼろしの町に紛れ込んだ五歳当時に巻き戻したりせず、全部現実にあったこととして14(5?)歳になった五実がそのまま帰ってきた場面だ。

 そもそもこのアリスとテレスには町が停止していてもタイムトラベルをするような要素は存在しないのだからこれはある意味当たり前の帰着なのだが、世の中には最後に神様の気まぐれのようなもので全てを巻き戻してパラレルワールドのような世界が続くような締め方をする物語もけっこうある。それらは私から見ると逆に永遠に続きそうな物語を無理に畳むためのご都合主義のようにも思えてしまう。*1

 私はその手の異世界に迷い込んだ客人やループする世界の時間的特異点的な存在が結局、物語の終盤で今までの経験や知識や思い出を失い、すべての出来事が存在しなかったように巻き戻っておしまいになるビターエンドが苦手だ。

 なぜ苦手かというと、結局そういった「なかったことにする物語」がなかったことにしているのは私たち受け手が見聞きしてきた物語の内容だからだだと思う。たしかに登場人物は「なかったこと」にしたおかげで悲劇や失った時間を取り戻せるだろう。本作でも五実が失踪した五歳当初に戻れば、両親は安心するし、五実もこれから先10年近い空白を埋める努力をしなくてすむし、まぼろしの工場で軟禁生活を強いられた記憶もなくしてしまえるだろう。その代わり、睦実や正宗との思い出を忘れるというほろ苦い結末ですむ。その天秤は物語の登場人物たちからすれば釣り合う価値があるように思う。

 しかし、私たち受け手側がここで掛けられる天秤は「登場人物の過去や失った時間」と「物語の中で観た出来事すべて」なのだ。酷い言い草になるが前者は私たちには想像することしかできない領域であり、逆に後者は私たち自身が物語を通して追体験し感情移入しているものである。ゆえに「なかったこと」になったとき少なくとも私は感情移入先を喪失してしまうように思えてしまい、それが苦手なのだ。

 ここまでは超自然的な力で記憶を失う物語についての話だったが似たパターンに妖怪などの存在や世界が見えていたのに大人になって見えなくなってしまうといった自然忘却系の作品もある。*2こちらはただ次第に忘れていくだけであり、当てはまらないといえば当てはまらない。ただ例えば冒険の記憶が完全に忘却の彼方に行ってしまうような作品は寂しいな、とは思う。というのも、物語中の劇的な出来事をそこまできれいに忘れてしまうのはそれこそ超自然的な力が働いているようでそこは苦手な部分かもしれない。

 もちろんこのようにして終盤に物語に生じる喪失感が好きな人はいて、私もそういったどうしようもないほろ苦い感情を物語の締めに楽しむ感覚がわからない訳では無い。そういったビターエンドが待っている作品を見て名作だったなと思うこともある。だが、せっかく登場人物と一緒に経験した出来事は最後まで共有して終わりたいとも思い、その思いが勝ってしまっているのだろう。

 そして見事に『アリスとテレスのまぼろし工場』はこの思いを叶えてくれた。今日観に行った観客のなかで、そもそも本編にない展開にしなかったことに感謝しているのは私だけだろうが。それでも私にとってこの映画で一番よかったのは、だから五実が現実にそのまま戻れたあのシーンなのだ。(その数年後と見られる最後のシーンではまぼろし工場もとい製鉄所を故郷のように思い、正宗との記憶を初めての失恋とひとりごつ五実のシーンでしっかりとまぼろし世界での出来事が連続しているのを確認して涙が出ていた)

 アニメ映画は玉石混交だとは思うが、このような当たり作品を引けた時が嬉しくて仕方ない。今回は事前から狙いをつけていたとはいえやはりオリジナルストーリーということもあって色々考えながら見ることができ本当にいい作品に出会えたなと思う。

P.S. 実は小説版があるらしい。『あの花』以来ひさびさに脚本の岡田麿里がそのまま筆を取っているようで確認したいが、もう何回か映画館に訪れて『アリスとテレス』世界を楽しみたいので最後に買おう‥‥‥






注釈*

*1;筆者がなんとなく思い当たったのは『ぐりとぐら』シリーズ。『ぐりとぐらのかいすいよく』などの形式に似ていると思った。トムとジェリーの劇場版も似た語感だったかもしれない。

*2;具体例はあえて挙げない。そういった終わり方をしても嫌いな作品というわけではなかったりするので(ただ心にしこりが残る)。逆に、記憶を失わずに物語を締める作品としては『All you need is kill』や『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンドレスエイトがある。エンドレスエイトが好きというよりループのストレス蓄積で感情を獲得した『涼宮ハルヒの消失』での長門有希が好きなのだが。

*3『若おかみは小学生』など。『妖怪大戦争(05)』の最後のカットすねこすりが見えなくなった主人公を見た時も同様の感情になった。(筆者が見た直近の映画にもあったが本稿を執筆している(2023年9月)時点ではネタバレになりすぎるのでやめよう)


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