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名詞の哲学②〜必然性/偶有性/アプリオリ/アポステリオリ〜

前回の記事では、ラッセルの確定記述の分析により、日常言語で曖昧になりがちな文の構造を分解することに成功し、固有名は確定記述の束であるということを見た。

例えば;富士山⇔「日本で一番高い山」とすることで固有名は確定記述へ置き換えることが可能で、記述の形にすることでその命題の真偽を決定することができるようになった。

今回はラッセルによる解決が生む新たな不満について見ていこう。


現実性と可能性


あのトールキンがもし『ハリーポッター』を書いていたらどんな物語になっただろうか?$${\bold{^{*1}}}$$

ラッセル流のやり方では『ハリーポッター』はトールキンによって書かれた作品ではないので単に偽として一蹴できてしまう。しかし私たちが今想像したいのはトールキン式ハリーポッターとでも言える作品の中のハリーの性格や生い立ち、あるいはホグワーツや他の登場人物の設定についての話であるはずだ(つまり無意味ではない)。

今見たような確定記述はこのように「もしも〜なら、…だろうに」という反実仮想で現れるような存在を扱うことができそうにない。

また、単に空想上の生物についても語れそうにない。たとえば「ペガサスは翼をもつ馬だ」などはペガサスが現実に存在しないために無意味になってしまう(ペガサスが翼をもつ馬なのは自明なことに感じるのに)。

このようにラッセルはその固有名が現実に存在するかどうかには興味を持っていたが架空の存在に対しては一律に偽あるいは無意味である(存在しないので)と考えた。しかし、私たちの直観ではそれらの文は偽あるいは無意味とは思われない。

可能世界

現実ではこうだが条件が違えば他であった可能性もあり得たというとき、その可能性が実現している架空の世界について空想することができるだろう。

たとえば、「私が鳥なら君のもとまで飛んでいくのに」という反実仮想文は実際に私が鳥になって飛んでいっているような世界を空想できる。

哲学においてこのように現実化していないが可能性としてはありうる世界のことを可能世界と呼ぶ。可能世界とは論理的に可能な世界という意味なので、パラレルワールドのような物理的に可能な世界とは少し違う(そもそも可能世界は実際には存在していないと見るのが主流だ)。したがって、ペガサスがいるような世界を仮定することも可能だ。

哲学の場で可能世界は「~かもしれない」「~することが可能」・「必然的に~」「必ず~する」のように可能性・必然性をシステマティックに扱うための道具として使用される。

簡単に説明すると「Pが可能」とはどこか少なくとも1つの可能世界でPが成り立っているという意味で、「必然的にP」とはすべての可能世界でPが成り立っているという意味だ、ということを明らかにしたのだ。

アメリカの分析哲学者S.クリプキによるとこの可能世界において<アリストテレス>や<夏目漱石>のような固有名は世界を通して変わらない(固定指示詞)という。これについて詳しく説明する前に次の項でとある区分について説明しよう。

必然性/偶有性/アプリオリ/アポステリオリ

固有名と確定記述の関係について次の区分を知ることでより深くまで探ることができる。それが必然性/偶有性、およびアプリオリ/アポステリオリという区分だ。

必然性と偶有性

この区分について話す前に以下の固有名と確定記述を確認して欲しい

固有名:夏目漱石
⇔確定記述:「『吾輩は猫である』を書いた小説家」

これは夏目漱石とその確定記述についての正しい関係なので
「夏目漱石は小説家である」⇔「『我輩は猫である』を書いた小説家は小説家である」という言い換えも正しい。

しかしここに「必然的に」という言葉を入れるとどうなるか?

1.「夏目漱石は必然的に小説家である」
2.「『吾輩は猫である』を書いた小説家は必然的に小説家である」

先程までの分析ではこれは1.⇔2.の同値のはずだ。しかし、本当に夏目漱石は必然的に小説家だったと言えるだろうか?

例えば、夏目漱石の友人である正岡子規の誘いで詩に本格的に目覚め、生涯を詩歌や俳句をつくって生きたなら、夏目漱石は小説家ではなく詩人だっただろう。

すなわち、「夏目漱石は偶然にも小説家だった」のであり「夏目漱石は詩人であったかもしれない」といえるということだ。

しかし、2.のほうではそうは行かない。可能世界の概念を持ち出せば、「…本名が金之助で、正岡子規が友人にいる、『吾輩は猫である』を書いた小説家である…」のような特徴を持つ人物がいる可能世界でその人物は小説家だからだ。つまり上の確定記述の束を満たすような人物は誰であれどんな世界であれ小説家である。

このように固有名と確定記述の関係は必然性や偶有性(偶然性)により破れる

固定指示詞

「夏目漱石は夏目漱石である」というのは必然的真理だ。しかし「夏目漱石は小説家である」は「夏目漱石は詩人である」世界もありうるので偶有的真理だ。ところでここで詩人であろうと小説家であろうと夏目漱石は夏目漱石であることは保たれている事に気づける。

つまり夏目漱石という存在はどの可能世界に出現しても夏目漱石である(例えば夏目漱石が詩人だった世界について考えているときも夏目漱石は夏目漱石だ)。このように世界を通じて固定された固有名のことを固定指示詞という。

アプリオリとアポステリオリ

アプリオリやアポステリオリは聞き覚えのない単語かもしれないがカントによって導入されて以降哲学的に重要な区分なので確認しよう。

アプリオリとはその意味さえ分かれば誰でもそれが真か偽か瞬時に理解できる知識のことだ。
例えば、「寡婦は独身女性である」は寡婦の意味さえ知っていれば正しいのがわかるだろう。あるいは「2+2=5」は"+"や"="の意味を知っているなら直ちに誤りだと気づける。
このように経験に左右されずに意味さえ分かればただちに真偽を判定できる知識をアプリオリな知識という。

アポステリオリとはその意味がわかっても調べなければ分からないような命題に関する知識だ。
例えば、「日本の人口は123,456,789人ちょうどである」などはその意味がわかったとしても人口について実際に調べなければ真か偽か分からない。
このように意味がわかっても調べなければ‥すなわち経験に基づかなければ判断できない知識をアポステリオリな判断という。

必然性とアプリオリ/偶有性とアポステリオリ

ここまで聞いて、アプリオリという概念と必然性が近いと思ったならば鋭い。たとえば「2+2=4」という命題は必然的に真だろう(2+2=5が真であるような論理的可能性を考えることはできない)、しかもアプリオリに真だとわかる命題だ。

しかし、残念ながらこの2つは別々の概念である。クリプキによると必然性と偶有性とは形而上学的区別、アプリオリとアポステリオリとは認識論的区別だという。

形而上学的、認識論的という言葉にはあまり深く立ち入らずに、この2つの区別がそれぞれ重ならないことだけ確かめよう。

これはつまり必然的アプリオリ必然的アポステリオリ偶有的アプリオリ偶有的アポステリオリという4区分ができることを意味している。そしてこれこそが固有名と確定記述の問題を解決するための区分だ。

  • 必然的アプリオリ‥「夏目漱石は夏目漱石だ」(トートロジーなので)、「祖母には孫がいる」(祖母の定義より)

  • 偶有的アポステリオリ‥夏目漱石⇔「本名が金之助で‥『吾輩は猫である』を書いた小説家」(夏目漱石という名前の人物が必ずしも「本名が金之助で‥『吾輩は猫である』を書いた小説家である」かどうかは調べるまで分からない、そして現実世界では偶然夏目漱石は(それを満たす)小説家だったのでこれは現実世界で真である)

必然性とアプリオリ偶有性とアポステリオリはそれぞれ結びつきやすい概念だと言える(伝統的にはアプリオリならば必然的でアポステリオリならば偶有的であると考えられていた)。しかし次のように偶有的アプリオリ、必然的アポステリオリについても例を挙げることができる。

  • 偶有的アプリオリ‥「100℃⇔水が沸騰する温度」(水は0℃で凍り、100℃で沸騰するのは定義であるのでアプリオリな知識だ。しかし、例えば摂氏を決める際に100℃を鉄の融解温度のことと定めていた可能性もあるため、水が100℃で沸騰するのは偶然である)、「1mメートル⇔パリの1mメートル原基の長さ」(1m原基の長さが1mであることは定義より明らかだが、1m原基の長さは他の長さでもあり得た)

  • 必然的アポステリオリ‥「宵の明星へスペラス」=「明けの明星フォスフォラス

宵の明星・明けの明星はどちらも同じ金星のことだ。しかし、金星は地球より内側にある惑星であるため夕方と明け方で東西の別の方向で確認できるため、中世ヨーロッパにおいては別々の天体であると考えられていた。それでへスペラスとフォスフォラスという別名が与えられおり、へスペラスとフォスフォラスはそれぞれ固有名といえる。

固有名であるため固定指示詞として「宵の明星へスペラス」、「明けの明星フォスフォラス」はどちらを「‥は金星である」の「‥」に入れても常に正しい、したがって必然的真理だ*⁴。しかしこれらが別々の天体と信じられていた間は正しくなかった、天体観測技術が進んだ結果同じ天体だと分かったのだから宵の明星=明けの明星であることはアプリオリな知識ではない。


固有名は確定記述の束ではない

したがって、今まで見てきた(夏目漱石のような)固有名⇔確定記述となるような固有名と確定記述の関係は偶有的アポステリオリにより構成されていることがわかる。

また偶有的アプリオリが言えるならば、"1m"は、「パリの1m原基の長さ」という確定記述で表せるが「パリの1m原基の長さは"1m"ではない」可能性を考えられるため、確定記述に還元できない固有名である。

そして必然的アポステリオリが言えるならば、確定記述の束がどのように変化しても固有名は必然的に固定指示詞であることがわかるだろう。必然的アプリオリが固有名の同語反復「夏目漱石は夏目漱石である」で固定指示詞となることが確認できるように、アポステリオリに同一性が判明した固有名でも固定指示詞となることができる(経験に左右されず固有名は固定指示詞であり、確定記述に還元されない)。

したがって、固有名とは現実世界であれ可能世界であれ同じものを指す事ができる固定指示詞のことであり、確定記述とは同じ確定記述であっても世界が変われば別のものでもあり得るという違いがある。(クリプキは確定記述を非固定指示詞と言っている)

すなわち、確定記述は固有名の十分条件でも必要条件でもないことがわかった。

このようにしてクリプキはラッセルの行った固有名⇔確定記述の束説を反論してみせた。哲学において相反する主張が見られた場合、私たちの日常言語からみてより自然な解釈になる方を選ぶというのは正しいだろう。

そして冒頭で見たように私たちは反実仮想文を日常的に使っている。あるいは空想の存在について語ることもできる。したがって、それらを無意味な文と考えるよりはクリプキのいうように固有名と確定記述を別のものと考えるのが良いだろう。

ラッセルの記述理論に対する批判は他にもP.F.ストローソンやK.ドネランのものが有名だがそれらは語用論(その発話が使われている場面)の問題であり、クリプキのものはラッセル同様意味論(命題の真偽)の範囲での批判であるので比較のため本稿ではクリプキのものを中心に扱った.


脚注

*1;「あのトールキン」とはJ.R.Rトールキン、『指輪物語』の著者である。もちろんJ.K.ローリング…『ハリーポッター』の著者とは別人である。

*2;アプリオリな判断などの言葉は聞いたことがあるかも知れない。ただ世間では先天的に知っているの意味でアプリオリを使うことがあるが少なくとも哲学的な意味では間違いである。同様にアポステリオリは後天的という意味ではない。どちらも経験に左右されるかどうかが判断基準である。

*3;違っていたかもしれないという可能世界について考えずとも単に「山頂付近では1気圧でなくなるために100℃より下の温度で沸騰する」や「熱膨張により金属製の1m原基の長さは時間や温度により異なる」など現実世界で考えてもアプリオリだが(それらの定義を決めた時点での1mの長さや1気圧であったことなどは)偶有的であることが確認できる。

*4;宵の明星と明けの明星がそれぞれ本当に別々の天体だった世界というのは考えることはできる。しかし、そのような世界では宵の明星は金星ではないか、明けの明星は金星ではないかのどちらかだ。今考えているのは固定指示詞としての宵の明星、明けの明星なので金星が存在する可能世界では常に宵の明星=明けの明星は正しい。

参考文献

八木沢敬,『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』,講談社選書メチエ(2013)
青山拓央,『分析哲学講義』,ちくま新書(2012)
三浦俊彦,『ラッセルのパラドクス』,岩波新書(2005)

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