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建築と入れ子の構造

渡辺保・評 『渾沌の恋人 北斎の波、芭蕉の興』=恩田侑布子・著
入れ子構造から広がる多面的世界
 斬新な日本文化論が現れた。
 
 たとえばここに芭蕉の句がある。
 
  雲の峯(みね)幾(いく)つ崩(くづれ)て月の山
 
 芭蕉四十六歳の、山形県の月山の景色の句である。著者自身がこの句の、一般的として引用した井本農一の解釈は次の通り。
 
 「高い雲の峰が夕日に映えている。月山を仰ぎ見れば、空には淡い月がかかっている。この夕暮の月のさす月山になるまで、雲の峰は幾つ立っては崩れ、崩れては立ったことであろうか」(井本農一ほか校注・訳『芭蕉文集 去来抄』小学館刊)
 
 ごく一般的な解釈だろう。ところが著者はこの解釈は「知性で捉えた表層の貌(かお)にすぎない」として独自の解釈を提案する。すなわちここには五つの「入れ子構造」がある。第一に現に登拝している月山、第二に秋の月に照らされた山、第三に麓(ふもと)の刀鍛冶(かじ)の銘「月山」、第四に天台止観でいう真如の月、第五に女性原理の暗喩。この五つの「入れ子構造を踏まえて多層的な音楽(ポリフォニー)のダイナミズムを味わ」えば次の様になる。
 
 「今朝もわたしは見た。炎暑の大空に峯雲が雄々しく聳(そび)え立つのを。その隆々たる純白の柱を。柱廊は太古から月山をどれほど荘厳(しょうごん)してきたことか。涯(かぎ)りなく繰り返された雲の輪廻よ。すでに日は没し、潰(つい)え去った積乱雲はあとかたもない。日中のふもとの炎暑が嘘(うそ)のようだ。冷ややかな月光に洗われて横たわる寂寞(しじま)の山よ。あなたは知っているだろうか。雲の峯はわが煩悩、風狂の思いでもあったことを。万物の声をひかりのように孕んで、万物と放電を交わさずにはいられないこの男の祈りを。いつか真如の月にかがやくまで、わたしは歩き続けよう。弓なりに身を反らせる刃、十七音の詩という刀を、月の香になるまで鍛(う)ち続けよう」
 
 「入れ子構造」というのは、本体に全く別のものを重ねて入れ込む手法をいう。当然そこに二重三重の意味を生じる。その五つの意味を著者が奔放に、しかし細緻に逃がさぬ名訳である。引用が長くなったが、それは入れ子構造による方法の重要性を知って欲しいからである。入れ子構造そのものが問題なのではない。それによってどのような読み方が可能になったかが問題なのである。
 
 そこで著者のしたことには三つの意味がある。
 
 第一に、一般的な解釈の世界とは全く違う世界を発見した。その世界は著者が指摘するように、さながら二十世紀のピカソのキュービズムにも似た多面的な世界であった。
 
 第二に、この世界の発見によって十七文字の短詩は、時空を超えて歴史的かつ日本の他の分野の文芸、演劇、絵画を一貫する文化の本質に至ることになった。それだけこの世界が日本文化の本質を含んでいたからである。
 
 そして第三に、これがもっとも重要なことであるが、近代的な合理主義が切り捨てて来たもの、目に見えず、耳に聞こえず、その心だけが見、聞くことが出来るものを捉えることが可能になった。たとえば「月山」という銘の刀はあの雲の峯とどう対峙(たいじ)しているのか。それが鮮明になったのである。
 
 以上三点。著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた。それは大きく宇宙を目にすることを可能にしたばかりか、その宇宙の特質である細部の繊細な輝きも発見した。たとえば次の宇佐美魚目の一句
 
  空蟬(うつせみ)をのせて銀扇くもりけり
 
 「空蟬」は蟬の抜け殻で、それを拾って銀扇に乗せた。著者の解は、「やや古びて淡墨(うすずみ)を帯びた扇の山と谷には、夏木立のひかりがうつろい、空の青さも溶け入っていよう。そのいぶし銀の空間に、蟬の殻はしずかな位置を占める。瞬時、長く地中に生きていた息と体温がやどったのである。わずかばかり前、生身を満たしていた殻から水蒸気が投網(とあみ)をひろげ、生と死がゆらぐ。それは白昼のほのかな幻影である」
 
 なんという美しい幻影か。それは細部に宿ってなおかつ大きな空間に広がる幻影でもある。その感触は、喜多川歌麿から葛飾北斎に及び、さらに絵巻物の時空から、千利休の茶の湯、世阿弥の能楽に及んで一貫している。
 
 さらにその広い空間から、著者は「興」と「切れ」という二つの概念に行きつく。「興」とは興趣、興味、興がるという言葉の示す通り、その作品の周辺に起き、作品の中から湧き上がって、それを享受する側の想像力を含めての、不可視のイメージの広がりを示すものである。
 
 その一方「切れ」は俳句の短い詩形の中で作られて、場景、人格、道具の転換を可能にする、いわばブラック・ホールをいう。「興」はその作品を包む空気であり、それを蓄え、あるいは転換を可能にする仕掛けが「切れ」である。その「興」と「切れ」によってはじめて冒頭の「月山」の句の解釈による五つの入れ子構造のポイントが生きて働く。
 
 この分析が新しい日本文化の視点になると私が思うのは、著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ。(演劇評論家)
 
 長々と引用したが、若い時からなぜか建築の「入り子の構造」に関心があり、その時々に取ったノートである。建築だけではなかなか納得がいかず建築以外にも手を広げた。気がつけば年配になり上記(書評)の『渾沌の恋人 北斎の波、芭蕉の興』に出会うと長年の私の関心に触れえたようで、つい全文の引用になってしまった。
 多くを学んだのは三浦雅士の著書であり、時々ページをめくったりするが、やはりそのたびに新しい発見がありノートする。そのうち一冊の本を丸写しになるかもしれないなどと思ってしまう。
 建築の引用資料は、結構古いものであり、いまの若い方たちだと知らない建築家も多いと思う。時々、建築の「入れ子の構造」などに関心をもつ人が、いまもいるのだろうかと尋ねてみたくなる。すべてが脳化社会(養老孟司)になり「入れ子の構造」はすでに忘れ去られたか、建築の対象から排除されたかもしれないと思わないわけではない。定期購買している唯一の専門誌を眺めているとそんな印象を感じつつ、感性が衰えたのか立ち止まり見返す建築が皆無になってきた。もう少し自分の感性を言語化してみたいとも思っている。
 
私という現象
 むしろ科学外のある種のフィクシヨン、神学であれ形而上学であれある種のフィクションにかかわることによって成立したのである。宇宙成立をめぐる神話はフィクションに過ぎない。歴史的に生成してきたほとんどの宇宙論もまたフィクションに過ぎない。・・・アインシュタインの相対性原理でさえもその例にもれないというべきである。
 しかし、なぜ、「自自身に物語をしゃべったって、つまらない」のか。
 人は誰でも、自分が何者であるかをいいきかせながら、ということはすなわち何らかの「役割」を引き受けながら、この世を生きてゆくほかない存在である。
 
 死の観念の発生と物語の発生とはおそらく一致している。自己を対象化したとき人は死の観念を引き寄せている。逆にいえば死の観念は自己を対象化せずにはおかない。対象化するということは自己の像を自己の外にもつということであり、心のなかに自己の姿を描きだせるということである。
 
 物語るときには、どうしても時間がいる。なぜなら、物語とは時を区切り、区切られた時をつなげる行為だからである。
 
 母がまず子の身になって、子の身になったその母の身になった子が、私という現象なのだ。語はこの原初的な入れ子構造―他者の成立基盤―から始まったのであり、そうである以上、入れ子構造いわゆるリカーションをその性質の第一とするのは当然のことなのだ。
 したがって、相手の身になることができるようになった瞬間、人はこの入れ子構造が無限に続きうるということー母、その母、その母の母、つまり自己の背後には無数の死者がいるということも会得してしまっているはずなのだ。現実にはしかし、この会得は、ただ、私という現象が、私から離れた視点、第三の視点なしには成立しえないという事態に代替されてしまっている。 
 
孤独の発明
 視覚を除くすべての感覚が直接的であるのに対して、視覚だけは間接的である。・・・距離とは猶予である。この猶予が生命に思考する余裕すなわち時間を与えた。時間とは思考の秩序以外の何ものでもない。思考がなければ時間は存在しないも同然である。もともと、外在する時間とは思考の与える時間という枠組みによって切り取られた外部世界の変化であって、外部世界そのものではない。・・・。思考は文字化、言語化によってはじめて思考独自の領域を持つようになるが、時間も空間もその後にはじめて明瞭な姿を現わすのである。
 
 眼で瞬時に計れる空間の尺度が形成され、その空間の尺度によって空間化され数量化された一望しうる時間―一日なり一月なり一年なりといった時間―が登場する。時間と空間はつねに一方が他方の尺度になっているのである。
 眼が時間と空間を生んだ、つまり、時間と空間は眼すなわち光を感知する器官によって生まれたのだといっておそらく誤りではない。しかも、この時間の対象化はただ時間の図式化、構造化すなわち空間化によってしか成り立ちようがなかったのである。同じように空間の対象化も時間―生命という時間によってしか成り立ちようがなかった。 
 
 ほんとうは、身体が外部なのではない。自己という現象のほうが外部なのだ。にもかかわらず、人間は逆に考えるのである。
 
考える身体
 身体は芸術において失われただけではない。いまやメディアの先端において抹消されているように見える。人は、身体を飛び越して、他人の頭蓋にじかに接しているようにさえ見えるのである。そこでは、まるで内が外になり外が内になっているようだ。
 けれど、内が外になり外が内になるというこのトポロジカルな反転そのものが、かつて人間がその身体を介して行なった複雑微妙な反転の劇、他者に住み込むことによって自己を獲得するという反転の劇に酷似しているのである。
 
裏返しの<中野本町の家>  伊東豊雄
 この住宅の閉鎖性や完結性はコンクリート壁に囲まれた外部空間に最も象徴的に表現されている。
 
 建築的な分節をされずにどこまでも連続しながら循環していた。自然光による明るさの変化を織り込みながら、柔らかな境界のない空間がつくられていた。
 
 <下諏訪>のプロジェクトでは<中野本町>とは逆に、圧倒的に外部空間に大きな意味が与えられている。
 
 かくして空間は平面方向でもまた立面方向でも重心を偏りを生じて、強く流動しはじめる。
 
GA JAPAN 藤織照信 モダニズムと異なる建築の進化
 昔、伊東さんが面白い話をしていたんです。大きく湾曲した面を考えると、その壁で隔てられる二つの空間が、カープの仕方だけで様相が反転すると。つまり、凹になっている側が内部だと感じられていたと思ったら、連続的に凸になると、いつの間にか外と感じられる。ボックス的なマッスの考え方ではなくて、もっと面の現れ方で相対的に空間が生まれるような見方をしているわけ。
 この発言を聞いて、伊東さんが空間の反転を考えていたことが判りました。それは「下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館」(一九九三年)で強く感じたんです。そこであらためて、一見インテリア的な「中野本町の家」(一九七六年)の内部は、外部に反転させていると思ったんです。そんなことをやった人はそれまでいなかった。そして、「せんだいメデイアテーク」(二〇〇一年)でさらに洗練させていきます。
 空問概念の基本として、伝統的な考え方として、内、外があります。モダニズムは、そこを等価に扱おうとする内外の一体化という空問概念を発明した。それは、日本の伝統建築から学んだことだと思う。まず、ライトが日本建築から学んで実践し、そのプロジェクトを「フランク・ロイズド・ライト作品集」(ヴァスムート社、一九一〇年)で見たグロピウスたちが、苦労の末に成功させていく。つまり、伊東さん以降の日本の建築家が考えている空間は、すぐれてモダニズムの本流に乗っている。一方、ゲーリーの建築的テーマは、近代的な空間性にはないわけです。
 内と外の一体化が生まれた後、伊東さんによって内と外の反転が行われる。そして、「せんだい」で、内なのか外なのか判らない、「虚の空問」が生まれました。具体的に言えば、「せんだい」のチュープ柱。あのチュープが内なのか、外なのかという話です。
 
デザインのまえに、そしてあとにくるもの 石山修武
 「工藤山荘」…何故ならこの建築は、原(広司)さんの一連の建築的思考の文脈からひとつだけはずれて見えるからだ。しかも重要な建築だ。
 
 1970年代当時、この建築=家具の観念の跳躍力に気づいていたのは3人だ。毛綱と原と倉俣史朗である。…箪笥や手箱の引き出しにも空間があることに気づいていた。…毛綱の今の密教的世界への入り口は箪笥の引き出しにあったのだ。原さんはそんな毛綱の反住器の存在を知ってその引き出しに飛び込むのを断念した。イヤ、したのではないか。ヤラレタとおもったか、ヤバイと思ったのか知らない。
 
「集落の教え」と様相論 原 広司
初期の住宅作品と集落の関連
 ここからは、私の設計した建物と、集落の写真を並べて説明していきます。まず、私の自邸です。これは集落調査を開始したころにつくった作品ですから、集落の持ついろいろな特性はまだ知らなかった時期に設計しています。住居に都市を埋蔵するというキャッチフレーズを思いついた作品です。家の中に家をつくったものです。

 こちらは、アフリカのコンパウンドの例です。コンパウンドの場合は、もっと多くの家族が集まって住んでいます。ひとつの壁なり囲いの中に小さな住居や穀倉などがあって、大変複雑な配置もあり、これがひとつの村だともいえる形でできています。家の中の家とか家の中の都市といった概念がここにもあるように思います。
 
民俗空間と窓 山口昌男
 コフャヤール族の円環的世界をめぐって(…)アフリカでは断面が円形の住宅は各地にみられます。(…)そういう形態のほうが普通だったんだと思います。むしろ方形の観念が入ったのはかなり後のことでしょう。
 
 その家は簡単にいえば三層構造になっていて
 
 天井の頂部は天蓋で覆われた窓(穴)があります。(…)出入り口以外の窓は機能的には通気孔だといってもいいのでしょう。しかし、それもやはり円の連環の中にある。
 
 内と外をつなぐ窓的な軒下空間…家の中のどこに身を置いても、中心とか周縁がない。ということは、どこにいても、そこが基底点であると(…)スタンスをもつことができる
 
 曼陀羅(…)円のもつ宇宙の充足性と、直線によって構成される四角の論理性/両性具有の状態から、男性と女性が分化
 
 アフリカの住居では、窓が空間的に分化していないからです。
 
 平面の分節化はあっても、パーティカルな垂直方向における分節化が少ない。壁に窓をあけることになんらかのいみをもたせるのは、空間の分節化の延長上にある行為ではないかと思う。
 
 軒下は空間全体が窓となっている。
 
 神が出入りする「神の窓」
 
 一種の天窓…天井に通気孔(…)空を反映するための窓
 
 フローレンス島ではこのベランダが窓の形をとらない窓であるといえます。
 
 家の中心にある象徴としての窓…指は分節の始まり(…)あらゆる分節の前の状態に立ち返る形で、儀式が進められる。
 
神話化雑感 渡辺豊和
 無制限に増殖可能な、典型的な分節型プランニングであった。
 
 カーンの独創的なのは、建築に入れ子手法もたらしたことだろう。正方形を「同心角」状に構成するのだ…小さな空間を大きな空間が包み込み、これが幾重かに繰り返される。…即ち、外郭から芯まで、それぞれの壁にあけられた開口部を通して中心が見えるが、各開口部の形が違うため、種々様々なパターンが折り重なっている。…その紋様のむこうに闇が見える。コルビュジェ…場所によって建築の構成を変え、形も変えた。カーンは、…建物の基本の構成形態を殆ど変えない。常に多重包み込み型平面と、厳格な幾何学をとる。
 
 カーンはユダヤ人だと聞く。放浪の民族には、場所の違いに着目する意識が生まれ出ることはないだろう。唯一絶対の観念が先行する。
 
「反住器」毛綱毅曠 渡辺豊和
 3つの正立方体が入れ子状になった構成は建築の原点を実に正確に表出している。建築には外部があり,内部は部屋に細分化され、部屋には、家具等が配列されている。建築において,それが最も典型化されているのが住宅であることは言うまでもない。とすると、外部、部屋、家具という具合にスケールは整序されて、住宅靖成されている。このことを毛綱は、3つの相似形の立方体wp入れ子にすることで、表現して見せた。・・・機能主義の巨匠ミース・アル・ローエの<ファンズワース邸>と同様に純度が高いのは、この厨房以外に部屋はないのであって、半地下に寝室が隠されていることは、誰にも気づかれないようにできているからである。
 
 どこまでも、住まう器としての住宅の普遍的原理に即しているのである。・・・<住器であるべき<反住器>>となってしまったのである。・・・これは初めに<反住器>の概念があって、入れ子型住居を考案したからにほかならない。
 
 このようなものは(夾雑物・玩具・絵・書物・盆栽・・・)、ギリギリの生活には必要とされるものではない。ところが、毛綱のこの<反住器>には、収納スペースというものが見当たらに。
 
 むしろ、衣類をまとうような気分で、住み暮らしているらしい。
 
 要するにこの<反住器>は、余分なものをすべて排除してできた、構成のみが裸形で露出した観念の住器なのであって、<ファンズワース邸>が機能を純化した住器であるのと、好一対の関係にあると言ってもいいかもしれない。
 
 毛綱は、<反住器>と呼んだが、決して<反建築>とは言わなかった。
 
 (磯崎)したがって、<反建築>を標榜する以前に、<建築>とは何なのか問われもしなった。
 
 毛綱の意識の中に、当然<反建築>を十全に方法化し、表現してみせようとした気負いはあったはずである。しかし彼は。しからば<建築>とは何なのかという根源的な問いを発し、それに解答する準備を整えるには至っていなかった。
 
 日本の私たちのように、余分なことに気を煩わす必要は初めからなかった。要は、典型的な<近代>建築が、即<反住器>となるのは、理論的に必要の結果なのである。ところが毛綱を含めた私たちは、まずは住宅における住器性に着目する必要があった。・・・<居住性>といった曖昧な評価基準を持ち出し、結局、住宅における<器>性を深く追求することをせずに終わってしまった。しかし、近代建築の最重要テーゼである7<機能>を軸に住宅がつくられるなら、ミースの<ファンズワース邸>のように、最終的には器としての住居しか残らないことになる。したがって、器としての住宅を否定することは、とりも直さず、近代建築そのものを否定することである。
 
 <反住器>が、的確な概念の設定によって成功を収めたように、今後とも私たちの建築は、徹底的に観念的であるべきである。観念を蔑視し、現実に押し流された時、私たちは明らかな敗北を味わうことになる。観念は、現実を否定することでは、さらにない。現実を構造化してこそ、観念は生動する。
 
 物質の塊でしかない建築と、流動する抽象的世界を等価に考えることが、果たしてできるのか。一見、不可能としか思えない設問に、やはり私たちは答えなければならない。
 
二項対立から長征へ 隈健吾
 自然は建築のなかに取り込まれているし、自然としても建築を取り込んだ気になっているような入れ子の状態をつくりたい
 
 理想的に考えると、存在のなかに、無数の層を成した無が挟み込まれる状態がつくり出されるわけです。
 
 音の場合は必ず共鳴現象が起こるから、点では表現出来ない、必ず響きを伴ったある種の広がりを持っている。この広がりが世界を接続しながらつくっていくわけですね
 
 絵画を音楽化しないといけないとパウル・クレーがずっと言っていたことの本質はそこにあるんじゃないだろうか。響き合い問題を絵画の上でどうつくっていくか。モンドリアンらの構成主義に彼は抵抗していますよね。
 
 構成主義が壁や柱という粒子に建築を一旦分解し、再構成するといったやり方ではなくて、物質同士が共鳴するような粒子の選び方があるんじゃないかと思うんですよ。
 
 能芸術は、二つの異質なものを接続するための芸術だし、違うものを繋ぐための場が能の舞台なんですね。現実に能の演目を見ていくと、人間の世界と神様の世界があの場で接続されるのです。
 
 モナドの接続の原理を能というもんがやっているんです。だから、能舞台はある意味ではオープンであると同時にクローズです。いろんな矛盾した要素を全部自身のなかに合体させてものをつくり出すんですね。
 
 映画のカットの接続は、単に違う要素を並べることに意味があるのではなくて、それを人間の意識がスキャンするときにいかにして連続体にまで誘導されていくかを計算している。
 
 でも釣りで一番重要なことは、釣り糸を垂れて当たりが来る。という接続の状態が大きな意味を持っているということ。
 
 シャーマンなどの異質領域とのインターフェイス上に立って、接続を自分の技芸とする人たちです。ぼくは、職人とは一言で言って、接続の問題の専門家たちだと思うんです。
 
 結合と離反が起こるインターフェイス上の接続をどうするかというと、それは技術です。かつて建築家は大工と呼ばれていて、自ら接続の技術者として振る舞っていた。
 
 二項対立は、つねに正義の観念と結びつきます。…もっと動的な生きた二元論が存在していて…DNAの構成を見ていると二重螺旋の構造をつかっていて…
 建築そのものは快楽の主体だったのでしょう。つくられて来たものがそうだし、つくられる過程もそうでした。建築のなかで生きること自体が、二元論を快楽の道具として使っているというわけです。
 
 快楽をつくり出すのは純粋二元論なんですね。外と内側のゲームの状態をどうつくるかということですから。

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