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演劇と建築

 二十歳頃だと思うが建築ついて演劇や文学などを参考に思考を繰り返していたことがあります。なぜ演劇などであったのか根拠があってのことではなく、ほとんど直感的に近いものでありました。思考を繰り返し、たどり着いたのは、簡単にいってしまえば、「空間は人間がその場に関与(関係)することで生成し、人間がその場から立ち去ると同時に消滅する」ということであり、読者や観客がいなければ文学も演劇も建築も成立せず、先験的に空間が存在しているのではないということでした。
 なんか、当たり前で大騒ぎするほどのアイデアではありませんでしたが、それ以降の物事へ取り組む姿勢や指針にはなったように思います。当時は学生運動が盛んで学校で学ぶとことが、いささか疑問に感じだしていた時(転部も考えた)であり、つたない学生でなんの知識も情報も身につけていませんでしたが、ひとり無謀に泥縄式で思考を始めたように思います。ほとんどのアイデアは、自分独自のアイデアであると妄想しましたが、周りを見渡すとすでに古来からのアイデアであり、その事実(単に知識不足)に少しがっかりもしましたが、ものごとへ取り組む勇気がようやく持てたように思います。
 
 「考える身体」(1999年)は、「演劇と建築」の時から数えれば30年近くたっています。専門分野の書籍や雑誌なども見たり、読んだりはしていましたが、「考える身体」と「他者と死者」(2004年 内田樹)は、建築の専門所ではありませんが、建築を考えるうえで、大切なことを学んだように思います。建築は、建築の中で充足しているわけではなく、文学や音楽、絵画、建築などを横断する課題なのかもしれません。
 
考える身体 三浦雅士
 建築にしてもそうだ。いや、建築こそ、あたかも舞踊のように体験されなければならないものの最たるものである。建築は人間の全存在にじかに働きかける。人は、宮殿に入ってその壮麗に圧され、寺院に入ってその厳粛に打たれる。まさに事件として体験されるのである。圧されるのも打たれるのも視覚でもなければ聴覚でもない。全存在である。建築を体験するとはそういうことであって、舞踊に等しい。すなわち建築もまたひとつの身体芸術なのである。
 
 舞台は観客なしに成立しないのである。観客こそが舞台を可能にするのだ。文学も絵画も、いや音楽でさえも、いまでは密室で体験されうるが、舞踊は違う。・・・事実、事件としての絵画、出来事としての音楽を追求する動きは、いまやいたるところに顕著である。
 
 儀式とはつねに性にかかわること、いや、儀式の根源とはじつは性のいとなみにほかならないことが明らかにされていたのだ。・
 
 ダンサーはまず男か女であり、人間であり、生命であるといったふうだ。極論すれば、性別さえはっきりしていればいいといったふうである。しかも、最後にはそれさえも無化してしまう混沌が現出してしまう。
 
 性のさなかにあっては、人はたんなる男であり女であるにすぎない、というように。だが、ペジャールが提起しているのは、性の問題である以上に根源的な身体の問題であるように思える。人は、身体のあるレベルにおいて匿名性のなかに消え、またあるレベルにおいて固有性として立ち現れる。
 
他者と死者 内田樹
 「愛の志向」が消失すると同時に、「愛する主体」も「愛される対象」も同時に消え失せる。エロスは志向性のうちにのみ住まうのである。・・・それは私が外側から見ている「その人」と、「愛する主体」が内側から経験している「その人」は別人だからである。エロス的関係の外側にいる私には「愛される対象」が「愛する主体」とって、どのように顕現しでいるのかを知ることは原理的に不可能なのだ。
 エロス的他者は、「師としての他者」と同じく「私を起点にしてしか接近できない」ものである。恋をしている人間が、そこでどのような「他者」に出会っているのかは、当人以外の誰もそれを言い当てることができない。
 
 愛は「いまだ存在しないもの」を目指している。ここでは、いくら触れてもなお満たされることがないという事況そのものが欲望されているのである。
 愛撫における「いまだ存在しないもの」は、「私」の中にあっていまだ発現されていない潜在可能性のようなものではない。それは触れると消えてしまうが、消える寸前までは触れられうるものとして、たしかにそこにあったように思えるものに固有の「存在する/しない」仕方なのである。
 
カニングハムまでの数万年 マース・カニングハム舞踏団来日に寄せて 三浦雅士 GA JAPAN35 1998年
 残念ことに、舞踏と建築は関連して語られることが必ずしも多くはない。けれど、考えてみればすぐに分かることなのだが、この二つはともに人類の歴史と同じほどに古い表現様式なのだ。
 
 むろん、人は、自分たちの住みか以上に、まず、神の住みかに関心を持っただろう。そして、神の住みかは何よりもまず舞踊を要求した。
 
 神殿も、また人家も、一々の宇宙への、森羅万象への畏敬の念の、その体系の象徴としてあるほかなかったからである。
 
 文字の登場する以前は、言葉と身振りと建築物は、おそらくほとんど同じものと見なされていたと考えていい。
 
 文字が登場し、印刷が発明され、その発明がいわゆる均質空問という幻想をばらまき、その幻想にともなって、舞踊から音楽が、絵画が分化し、商業劇場が、コンサート・ホールが、美術館が建設されるように済なった・・・その建築のなかに絵画が分心得顔にこじんまりと飾られるようになったのも、たかだかここ数百年のことにすぎなかったということである。建築と舞踏の結びつきは、そのはるか以前に遡るのみならず、長いあいだ、ひとつの時空の異なった現われとしてほぼ同じものと考えられていたという事実に注意を促したいのである。
 いや、歴史を遡るまでもない。絵画は視覚に、音楽は聴覚にもっぱらかかわるが、舞踊と建築はともに触覚にかかわることによって、いまなお密接な閏係にある。触覚という言葉が奇異に響くならば、五感といってもいい。建築は、そこに入るもの、居住するものの全身を、全感覚を支配する。舞踊もそうだ。舞踊は見るものの呼吸を支配し、全身の筋肉を支配し、そのうえで感情を支配する。舞踊と建築のこの関係は、いまなお重要な研究課題としてあるといっていいが、じつはこのような問題系のひとつの現れとして二十世紀の舞踊の歴史もあったのである。
 
 モダンバレエの覇者バランシンは、筋も物語もない、ただダンサーの動きの美しさによってのみ構成される抽象的なバレエを創始したのである。すなわち、建薬史におけるインターナショナル・スタイルに呼応するような均質空間をバレエにもたらしたのだ。
 カニングハムには、グレアムとパランシンを交配させることによって生まれてきたようなところがある。均質空間をもたらしたものの、パランシンはシンメトリーを崩すことは決してしなかった。バランシンの舞台にはつねにセンターが存在したのである。カニングハムが画期的だったことの第一はセンターを取り去ったこと、第二は男女の差を取り去ったことである。さらに舞踊と音楽と美術をまったく等価なものとし、それらの偶然の出会いを組織したこと。むろんこれにはジョン・ケージの力が与って大きかったが、その結果、カニングハムの舞台には、原始的な現代が、現代的な原始がつねに現出することになったのである。
 
 カニングハムの背後に舞踏と建築の数万年の歴史を垣間見ることができるといって、おそらく過言ではない。

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